つまり金融政策と現実の状況との間に接点をつくれなかったわけですが、これでは緩和の効果が上がらない。市中銀行にとっても、貸し出さねば利息が稼げないため意味がない。「ブタ積み」という表現は、花札(オイチョカブ)で役ができないことを「ブタ」と呼ぶのに由来するそうです。役ができなければ、札があっても意味がありませんからね。
同様、いくら古典を読んだところで、そこから得た知識と、現在の自国の状況との間に接点をつくれなければ、知識は頭の中でブタ積みになって終わる。だから勉強していても、自分で論じる段になるとメチャクチャになるというわけです。
日本の学者は頭でっかち
中野:施さんはどうお考えですか。
施:なぜ古典の知恵が無視されるのかということに関して、私もいくつかの可能性があると思っています。
一つは、勉強をしなかったというより、むしろ勉強ばかりしたことで「頭でっかち」になってしまった可能性です。私は大学で知識ばかり先行している人と接する機会が多いので、余計にそう思います。
たとえば、戦後の日本が驚異的な経済成長を遂げ、世界第2位の経済大国にまでのぼりつめたとき、世界の国々が、日本の成功の秘訣を探りました。そこで見出されたのがいわゆる「日本型経営」や「日本型市場経済」と呼ばれたシステムです。こうしたシステムにはそれぞれ問題点もありましたが、いまから振り返れば、これらが日本に安定をもたらしたことは間違いないと思います。
「日本型経営」や「日本型市場経済」は官僚や知識人たちが何か知識や学問に基づいて構築したものではありません。さまざまな立場の多くの人々が試行錯誤する中で、半ば無意識につくりあげたものです。いわば経験から得た知恵です。
ところが、1980年代ごろから官僚や財界人、知識人などがアメリカに留学して新自由主義に染まり、「日本には改革が必要だ」などと叫んでこうした日本型システムを破壊してしまいました。その結果、日本は勢いを失い、「失われた30年」が到来したのです。
イギリスの日本研究者であるロナルド・ドーアは、「日本型経営」や「日本型市場経済」を称賛してきた方ですが、彼は『幻滅』という本で、日本の官僚たちがアメリカの大学院、それも経営学の大学院などに留学するようになってから日本は劣化したと書いています。ドーアはその数少ない例外として中野さんの名前をあげていますが、彼は書名の通り日本に幻滅してしまったわけです。