私もこの30年間、古典を読み込み、しっかりと理論武装した上で繰り返し新自由主義を批判してきた欧米の知識人たちから、多くのことを学んできました。とはいえ、全体から見れば新自由主義を批判している人たちは少数派でした。
主体性をめぐる逆説
中野:古川さんは教育哲学や道徳教育を専門としていますが、古典の意義をどのように捉えていますか。
古川:中野さんが今回のご著書で明らかにされた「古典の知恵」は、一言で言えば「逆説」だと思います。「自由を求めるほど、かえって全体主義になる」「効率化を求めるほど、かえって非効率になる」「平和を求めるほど、かえって戦争になる」。こういう皮肉な逆説です。
この30年間の日本の新自由主義改革やグローバリズムは、こうした古典の知恵が正しかったことを明らかにしたわけですが、教育の分野でも同じことが言えます。構造改革と並行して、「教育改革」が30年間、延々と続いていますが、そこで言われているのは、俗に「知識偏重」と言われる、過去から受け継がれてきた知識を教えるだけの教育をやめて、グローバルな時代に対応できる自由な「個性」や「主体性」や「思考力」を育成すべきだというようなことです。
ところが、その新しい教育を受けた世代が、大人になって、旧い教育を受けた世代から何と言われているかというと、「いまの若い人たちは主体性がない」と(笑)。「主体性を育む教育」を受けたはずの世代が、かわいそうに、上司に指示されないと何もできない「指示待ち人間」などと呼ばれて馬鹿にされてしまっているのです。
最近も『先生、どうか皆の前でほめないで下さい』(東洋経済新報社、2022年)という本が話題になりました。「目立つ」ことや「浮く」ことを恐れて、集団のなかに埋没したがる。自分で決めることを嫌がって、何でも人に決めてもらいたいと思う。いまの大学生や若い社員は、ここまで徹底的に「個性」や「主体性」を根扱ぎにされているということが、驚きをもって受けとめられています。
もちろん、すべてが教育の結果というわけではありません。しかし、それでも、「個性」だの「主体性」だのを謳った「教育改革」を30年間、やり続けた結果がこれだという皮肉な逆説は、いいかげん反省すべきでしょう。それなのに、学者やマスコミは、こぞって「日本人に主体性がないのは、日本の教育が知識偏重だからだ。だから改革が必要だ」などと言っている。「改革」をしたからこそ、こうなったのではないかということは、考えようともしないのです。私自身は、教育はあくまでも過去の知識の教授に徹したほうが、かえって子どもの主体性や思考力を育めるはずだと思うのですが、誰も共感してくれません。
佐藤:おっしゃる通りです。例によってピーター・ブルックが良いことを言っていますよ。子どもに絵の具箱を与え、ただ好きにやらせたらどうなるか。「全部の色を混ぜあわせて、結果は必ず泥んこのカーキ色に決まっている」。ブルックは安直な即興演劇を批判してこう述べたのですが、主体性を活かすには、まず規律によって基盤をつくってやらねばなりません。でないと〈自由の限界〉があっという間にやってきます。