癒し系?単純?「和田義盛」史実に見る本当の性格 歴史に造詣、将軍・源実朝に絵を献上したことも
御家人66人の景時弾劾状を頼家に見せることをためらっていた文官・大江広元に対し、「梶原景時の権威を恐れて、多くの者の鬱積した感情をないがしろにするのは、道理にかなわないこと。弾劾状を、頼家様にお見せするか否か、この場で返答願いたい」と怒鳴りつける義盛。その剣幕に恐れをなしたのか、広元は頼家に弾劾状を奉呈するのでした。
景時はほどなく、滅亡。それにより、義盛は侍所長官に返り咲きます。思い詰めたら一直線、感情的な義盛の姿。とはいえ、義盛は無教養な人物だったわけではありません。
武勇に優れ、一定の教養も備えていた
建暦2(1212)年6月には、義盛の邸を訪問した3代将軍・実朝に、義盛は日本や中国の有名な将軍の肖像画12枚を献上しているのです。ここから、義盛は歴史にも関心を持っていたことがうかがえます(おそらく、実朝と歴史談義に花を咲かせたのではないでしょうか)。
また、義盛の孫・朝盛は、実朝の近習として重用されていますが、朝盛は和歌や蹴鞠にも優れた教養人でした。
武勇に優れた面もありつつ、一定の教養も備えていた。それが和田義盛の実像といえるでしょう。
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