癒し系?単純?「和田義盛」史実に見る本当の性格 歴史に造詣、将軍・源実朝に絵を献上したことも
元暦元(1184)年8月、頼朝の異母弟・源範頼は、平家方討伐のため、西国に派遣されますが、その軍勢のなかには、義盛の姿もありました(北条義時も派遣されています)。
しかし、範頼軍は兵糧や船の欠乏で大苦戦。1185年1月には、御家人たちにも厭戦気分が蔓延。義盛は、侍所長官という御家人を統率する立場にありながら、ひそかに鎌倉に帰ろうとしたといいます。立場上、無責任と言えば無責任ですが、感情の赴くままに行動しようとする義盛の姿が垣間見えます(もちろん、それは義盛1人というわけではなかったでしょうが)。
奥州藤原氏攻めでの和田義盛の活躍
義盛の勇姿が『吾妻鏡』のなかで活写されているのが、1189年8月の、頼朝による奥州藤原氏攻めのときです。阿津賀志山(福島県)の戦いで、藤原氏の軍勢を破った頼朝軍。義盛は敗走する藤原国衡を追撃するのです。
「戻って手合わせをしろ」。義盛は国衡にそう呼びかけます。国衡はそれに応じ、互いに弓を撃ち合おうとします。国衡が弓矢を放つ前に、義盛が放った矢が国衡の腕に命中。国衡は逃亡していきます。そこに畠山重忠の軍勢が乱入し、国衡は畠山軍の者が討ち取ってしまうのでした。
重忠が国衡の首を頼朝の御前に持参します。頼朝が重忠を称賛しているとき、義盛が現れます。そして「国衡は、この義盛の矢に当たって命をとられることになったのです。畠山殿の手柄ではありません」と割り込んでくるのです。
重忠は大笑いしながら「和田殿が申していることは、和田殿の伸び放題の髭と同じように、ほら話というもの。和田殿が国衡を殺したという証拠は何か?私(重忠)が国衡の首を持っている以上、われらが国衡を倒したことに疑いようがないだろう」と反論します。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら