癒し系?単純?「和田義盛」史実に見る本当の性格 歴史に造詣、将軍・源実朝に絵を献上したことも

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それに対し、義盛は「首については確かに畠山殿の言うとおりです。しかし、私の射た矢が国衡に当たりました。その矢の穴は、国衡の鎧の左側の袖の上から2、3枚目の小札に、必ずあるはず。国衡の鎧は、剥ぎ取られてしまったでしょうが、それをここへ持ってこさせて、事実か否かを確かめてほしいのです。国衡の鎧の威毛(糸や革ひも)は紅色で、馬は黒毛でした」と再反論しました。

鎧を探索させ、持参させてみると、義盛の言う通り、鎧の威毛は紅色。左側の袖の上から3枚目の小札の後ろ側に、射抜いた穴がありました。これにより、義盛の主張の誠が認められたのです。自らの手柄を頑として主張する義盛の粘り強い性格を見ることができるでしょう。

義盛の祖父・三浦義明は、畠山重忠らの軍勢に攻められて自刃していました(1180年、衣笠城合戦)。義盛には重忠に対する遺恨が多少なりともあったと思いますので、重忠に負けたくないという感情が、前述の論争に発展した1つの要因かもしれません。

梶原景時を追い落とす急先鋒となった和田義盛

さて、頼朝の死後、義盛は、源頼家(幕府2代将軍)を支える13人の有力御家人の1人となります。ところが、頼朝死後の鎌倉では、有力御家人同士の紛争が勃発。その最初の「犠牲者」というべきが、頼朝の腹心・梶原景時でした。

景時追い落としの急先鋒となったのが義盛。かつて景時は、義盛に「1日だけでも、侍所長官の職を譲ってほしい」と懇願、そのまま同職に居座っていたといいます(『吾妻鏡』)。この逸話がどこまで本当かはわかりませんが、本当ならば、義盛にとって、景時は許しがたい相手だったでしょう(前述の逸話は、義盛の人のよさを表しているようにも思います)。

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