北条に反旗「人気者・和田義盛」と西郷隆盛の共通点 鎌倉幕府を支えた男がなぜ反乱を起こしたのか
御家人から慕われ、将軍からの信頼も厚かった
建暦3(1213)年、鎌倉時代初期において、最大の内乱が起きる。和田義盛が挙兵した「和田合戦」だ。相手取ったのは、鎌倉幕府の実質的な最高責任者を務める、北条義時である。
北条義時は父の時政を排除すると、御家人の事実上のトップとなった。その性格は『増鏡』の著者に「心も猛く、魂まされる者」と描写されている。今やその勢いは誰にも止められないほどだった。
なにしろ、有力御家人の多くはすでに姿を消している。残っていたのは三浦義村、小山朝政、そして和田義盛だ。もはや第3代将軍の源実朝にも実権はなく、政治は北条氏一族の思うままといってもよかった。
和田義盛はそんな状況に嫌気がさして、鎌倉幕府に長く貢献してきた身でありながら、ついに立ち上がった。北条義時からすれば、願ったりかなったりの展開である。なにしろ、和田義盛は多くの御家人たちから慕われて、将軍の実朝からの信頼も厚い。リーダーシップをとる立場からすれば、和田義盛が邪魔な存在だったことは想像にかたくない。
和田合戦は、策略家である北条義時による挑発に、和田義盛がまんまと応じたことで引き起こされた……そう解釈されることが多い。
しかしながら、和田義盛が頭脳派ではないにしても、そこまで迂闊ならば、熾烈な内ゲバが繰り返される鎌倉幕府で、この時点まで生き残っていないだろう。どちらかというと、和田義盛は自分の意思に反して、やむをえず北条に反旗を翻したフシがある。
まずは、和田合戦が起きた背景について探ってみよう。
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