北条に反旗「人気者・和田義盛」と西郷隆盛の共通点 鎌倉幕府を支えた男がなぜ反乱を起こしたのか

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和田合戦が起きた要因として挙げられるのが「泉親衡の乱」である。

建暦3(1213)年、北条義時や将軍の実朝へのクーデター計画が発覚すると、首謀者である信濃源氏の泉親衡が捕縛された。すると、驚くべきことに、計画には和田義盛の子である和田義直や和田義重、そして甥の和田胤長まで関与していることが判明する。

息子たちの謀反を知った義盛は、将軍の実朝に謁見。罪を許してもらえないかと働きかけている。その結果、義盛のこれまでの幕府への貢献度を加味して、実朝は決断を下す。義盛の息子である義直と義重の2人は、罪は免じられることになった。

甥の和田胤長の所領を没収した北条義時

ところが、甥の和田胤長だけはクーデターの首謀者の1人だったため、許されなかった。それどころか、義盛の目の前で胤長は縄で縛りあげられ、囚人のように連れ去られたという。結局は陸奥に流罪にされている。

さらに和田胤長の屋敷を没収され、そのうえ、本来は一族である義盛に与えられるはずの、胤長の所領までもが、北条義時に没収されることとなった。屈辱的な目に遭った義盛は、怒りを募らせたに違いない――。義盛の胸中を推し量ったのだろう。『吾妻鏡』では次のように記載されている。

「義盛の反逆の心はこれが原因であるという」

もし、本当に甥への処分に納得できずに挙兵したのであれば、確かに和田義盛は、北条義時の挑発にまんまと乗ってしまったことになる。

しかし、政権転覆を狙ったクーデターに関与したことを思えば、和田義盛の息子2人が罪を免れたのは、むしろ寛大すぎる処置だ。これまでの鎌倉幕府で起きた内部粛正を思えば、考えられないほどである。

まさに義盛と実朝の親密な関係がなせる業だろう。本来は、和田義盛が実朝の温情に感謝すべき処分である。

次ページわずか1日で和田義盛の態度が一変
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