北条に反旗「人気者・和田義盛」と西郷隆盛の共通点 鎌倉幕府を支えた男がなぜ反乱を起こしたのか

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それにもかかわらず、首謀者に近しかった甥が厳しく処分されたからといって、反乱を起こすほど不満を持つのは、やや「求めすぎ」ではないだろうか。実際のところ、義盛は3月8日に実朝と謁見して、わが子たちの処分を聞いて、その日は退出。異議を唱えた様子もない。

ところが、翌日の9日になると態度が一転。義盛は「甥も助けてほしい」と一族98人を引き連れて、御所に押しかけるという暴挙に出ている。

まるで人が変わったかのような義盛の行動について、高橋秀樹は『北条氏と三浦氏』で「義盛は一族の若い世代に動かされて9日の行動に出たとみるのが妥当なところではあるまいか」としている。そうならば、たった1日後に義盛が態度を変え、強弁した説明はつきそうだ。

和田義盛は若者たちを諫めていた

和田義盛が若手たちに担がれたのは、自身が実朝に述べた言葉からも明らかである。

不穏な空気を感じた実朝が、義盛に使者を出して状況を確認したところ、義盛は「将軍様においては、まったく恨みはありません」と述べた。反乱を心配する実朝に、むしろ自分は止めようとしているのだ、としてこう続けている。

「北条義時の言動が傍若無人なので、詳しい理由を問いただすために武装して向かおうと、若者らが話し合っているようです。この義盛が何度も諫めているが、相手にされません」

同じく『吾妻鏡』からである。和田義盛の胸中を読み解くならば、こちらの記述のほうを重視したほうが、つじつまが合いそうだ。

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