癒し系?単純?「和田義盛」史実に見る本当の性格 歴史に造詣、将軍・源実朝に絵を献上したことも

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和田塚
和田義盛とその一族の墓と伝わる「和田塚」(写真:Photo_N/PIXTA)
NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送で、源氏や平氏の歴史に注目が集まっています。その「13人」のうちの1人として登場する「和田義盛」は、ドラマでは「癒やしキャラ」としても人気ですが、実際はどんな性格だったのでしょうか。歴史学者の濱田浩一郎さんが解説します。

和田義盛は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」において、勇将でありながらも、そのユニークな人柄から愛されている武将です。ドラマでは、その義盛にも最期のときが迫っていますが、実際には、義盛とはどのような性格の武将だったのでしょうか。『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に編纂された歴史書)から探っていきましょう。

まず、義盛の基本情報から整理しておくと、義盛は、相模国(神奈川県)三浦郡の豪族・三浦義明の孫でした。ここからわかることは、義盛は三浦一族だということです。

源頼朝の挙兵に加勢した和田氏

治承4(1180)年8月、源頼朝は平家方に対して、挙兵しますが、三浦氏や和田氏もそれに加勢。義盛も頼朝に付き従っています。『吾妻鏡』には、義盛は頼朝の使者として、上総介広常のもとに派遣されたとあります。広常に頼朝のもとに馳せ参じるよう伝えるためです。同年10月、頼朝は鎌倉に入り、その翌月には常陸国(茨城県)の佐竹氏を攻撃しますが、義盛は佐竹攻めにも加わっています。

11月17日、頼朝は鎌倉に帰還。同日、義盛は頼朝から侍所の別当(長官)に任命されるのです。これは、石橋山の戦い(8月)での敗戦直後、安房国(千葉県南部)に向かう途上、義盛が頼朝に、事が成就した暁には、この職に任じてほしいと希望したことによるとされます。

負け戦で落ち延びる途上での発言とは思えません。ここから、義盛は前向きで、野心溢れる人柄だったことがわかるでしょう(侍所は、鎌倉幕府において、軍事のみならず、刑事裁判をも管轄し幕府の最重要機関の1つとなります)。義盛は1147年の生まれとされますので、この時、33歳。出世の糸口をつかんだといえましょう。

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