西南戦争の裏にあった西郷隆盛「暗殺計画」の内実 当初は挙兵に反対だった西郷の態度が急変した訳

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西郷が急に態度を変えるのは、珍しいことではないが、一転して挙兵に同意したのには、理由がある。

もし、ここで立ち向かわなければ、暴発した私学校の急進派たちだけが処罰されることになる。もはや戦うしかないというムードが、挙兵に反対した西郷ら幹部たちにも伝播したのは間違いない。現に最も穏健派だった篠原でさえもこう言って、考えを変えている。

「速やかに大挙を着手すべし」

ただし、西郷が決起に同意したのは、まったく別の要因もあった。それは明治政府による西郷の「暗殺計画」が現実味を帯びてきたからである。

鹿児島県出身の警視官や書生が次々に帰省

西郷の命を狙う者が鹿児島に潜伏しているらしい――。

そんなうわさがささやかれ始めたのは、明治9(1876)年9月ごろのことである。西郷が小根占までウサギ狩りに出かけたときにも、警護がつくようになった。

不穏な空気のなか、年が明けて明治10(1877)年1月になると、20人ほどの鹿児島県出身の警視官や書生が次々と帰省してきた。墓参りや母親の看病など、帰省の理由はそれぞれだったが、あまりに不自然だ。

私学校の生徒たちからすれば、西郷の暗殺計画がうわさされるなかで、彼らがただ帰省したとは信じられるはずもない。なにしろ、警視庁は大久保内務卿の管轄に入っている。大久保を支える大警視の川路利良が彼らを送り込んできたことは、火を見るより明らかだった。

はたしてその目的は何か。ただの偵察なのか、それとも、本当に西郷暗殺を目論んでいるのか。私学校の関係者は、帰省してきた警視庁二等少警部の中原尚雄にスパイをつけて、動向を見張っていた。

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