西南戦争の裏にあった西郷隆盛「暗殺計画」の内実 当初は挙兵に反対だった西郷の態度が急変した訳

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元薩摩藩の国父の島津久光が朝廷に提出した報告書によると、西郷は激怒して、暴走した私学校の生徒たちを叱りつけたという。西郷の妻イトも、のちに同様の証言をしている。

「西郷は、挙兵をせかす私学校の幹部たちに大義名分を説いて鎮撫しようとした」

一方の大久保利通は、といえば、「鹿児島で挙兵した」という報告を受けても、西郷が関与しているとは決して信じなかった。周囲がどれだけ警戒しても、大久保だけは「西郷は大丈夫だ」と言い張って聞かなかったのである。

この時点では、「西郷は士族の反乱に加わらない」という大久保の見立ては、正しかったことになる。だが、事態は急変する。

話し合いを重ねた末に態度を変えた西郷

実は、火薬庫の襲撃が行われる前の1月22日ごろにも、西郷は桐野利秋ら急進派から決起を促されていた。

その理由は1月2日の年明け早々に、明治政府が鹿児島の武装解除に着手したことにある。鹿児島県内の武器弾薬庫から銃器や弾薬が次々に運び出されて、政府が手配した汽船に詰め込まれていく。そんな明治政府の挑発に対して、桐野利秋らの急進派は激怒。西郷に「今こそ立ち上がるべし」と迫ったのである。

だが、西郷はそれには応じず、急進派を押さえ込みにかかっている。西郷だけではない。銃隊学校長の篠原国幹や砲隊学校長の村田新八も、挙兵には反対。それに不満を募らせた私学校の生徒たちが、陸軍の火薬庫を襲うという実力行使に出たのだった。そんな経緯を踏まえれば、西郷が急進派の暴走を叱りつけたのも、無理はないだろう。

ところが、その後、話し合いを重ねた末に西郷は態度を変える。決起に同意して、政府に立ち向かうことを決意。こう言って腹をくくっている。

「出兵と決まった以上、自分の身体はみなに預ける」

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