万葉集の和歌には、「長歌」と呼ばれる五・七・五・七を続けて長い歌を詠む形式と、「短歌」と呼ばれる五・七・五・七・七で終わる形式と両方の歌が載っている。
長歌はそのうちすたれて、短歌ばかりが残ることになったので、今の私たちが和歌と聞いて想像するのは「短歌」のほうである。長歌も連歌の形式で後世に伝わったりするのだが。
さて、そんな「長歌」にも、「戯書」つまりはダジャレで読ませる漢字の遊びはあった。例えば、こんな歌。
(泊瀬の川の上流下流に鵜飼をたくさん潜らせ、とれた鮎を食わせる――そんなくわし(素敵な)彼女だが、逃した鮎を悲しむように、矢のように彼女が遠ざかってしまったことが悲しくてならない……。もし彼女が衣服だったらまた縫えばいい、宝石ならまた紐で結べばいい。しかし彼女には二度と会えない。その人は私の妻だったのだ)
内容としては、亡くなった妻を偲ぶ挽歌(追悼の和歌)である。葬式の後に詠まれた歌かと言われている(伊藤博『万葉集釈注』7巻[集英社、1995年])
しかし気になるのが、「八十一里喚鶏」である。これもぜひなんて読むか考えてみてほしい。
擬音もアリなのか!
前の句が7音ということは、「八十一里喚鶏」は5音で終わるはず。長歌は五・七・五・七のリズムで続いていくからだ。
まず「八十一」これは前の歌でみたとおり、「くく」だろう。「里」これは「り」。それでは「喚鶏」は? おそらく2音で終わるはずである。「喚鶏」の意味は、「鳥を呼ぶ声」。これ、実は「つつ」と読むのだ。鳥を呼ぶとき、ツツツ……と言うからである。
擬音語も使っていいのか、万葉集!
「八十一里喚鶏」と書いて、「くくりつつ」と読む。表記で遊んでいるとしか思えない! 万葉集がいかにユーモアにあふれた文芸作品であるか、おわかりいただけるだろうか……。
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