開戦前の朝鮮では、礼儀正しかった足利幕府にかわった豊臣秀吉からの使者への面会を拒んだり、答礼としての使節団派遣を拒んだり、文書が無礼であると無視したりしていた。
しかし、対馬の宗氏(朝鮮王朝にも服属しており、官職や米を得ていた)の仲介もあり、約150年ぶりに特使を派遣して、日本の情勢調査を実施した。
ところが、国防増強を説く黄允吉(ファンユンギル)ではなく、警戒不要論を唱えた金誠一(キムソンイル)の一派が重用されたために、せっかく防備を固めはじめていたにもかかわらず、武装解除をしてしまっていたのだ。
「平和ボケ」が招いた致命的な損害
これは、リーダーと側近が愚かなら、一国が傾くことの典型例でもあろう。このような判断を下したときの国王、宣祖(ソンジョ)と、派閥争いに明け暮れた重臣たちの罪は非常に重い。
当時、釜山(プサン)に上陸しても朝鮮軍があまりに無防備で何も反撃してこないので、日本側も驚くほどのラクな進撃となったようだ。
ちなみに、2回目の出兵である「慶長の役」のときは、反戦派・和平派の小西行長と主戦派の加藤清正の不仲が表面化しており、小西行長が朝鮮王朝に加藤清正軍の来襲場所とタイミングを先に知らせて討伐するように密使を送ったという逸話も伝わっている。しかし朝鮮側は「罠に違いない」と信じず、結果的に加藤清正軍に大量殺戮を許すこととなったという。
当時の朝鮮王朝はすでに建国から200年が経っており、「文禄の役」までは戦争もなく平和そのもので、儒教を学んだり陶磁器をつくったり、王を称える詩集の編纂に熱心な、軍事的緊張感のない平和ボケした国であった。
それが、百戦錬磨の武将を大量に抱える日本が、当時の総兵力の約半分ともされる大軍を送り込んできたのだ(朴永圭『朝鮮王朝実録 改訂版』[キネマ旬報社]等によれば、約30万の当時の日本の総兵力のうち約15万が渡海したという)。これに対して朝鮮では、開戦当初は国防体制がまったく追いついていなかった。
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