日本と韓国「歴史問題がどうも決着しない」深い訳で論じてきたように、日本人にとっては「韓国人はしつこい」となり、韓国人にとっては「日本人は過去をすぐ忘れる」という対立構造の根は、多くの方が思われているような近代史ではなく、じつは古代以来の集団的記憶に遡る。
韓国史上、最も悲惨だった「壬辰戦争」
16世紀の終わりに豊臣秀吉が行った「文禄・慶長の役」と日本で呼ばれる「朝鮮出兵」。
この戦争は朝鮮半島では「壬辰・丁酉倭乱(じんしん・ていゆうわらん)」、後に「壬辰戦争」などと呼ばれ、その悲惨さが民間伝承や文学などでも民族的記憶として後世に伝えられてきた。
前述の沈壽官氏の御先祖をはじめ、有田焼、伊万里焼、波佐見焼などなど日本を代表する陶磁器文化は、この朝鮮出兵で強制連行された朝鮮の陶工によりはじめられたものだ(ただし各地の作陶開始の歴史を読むと、ここはぼかして「朝鮮半島から渡来してきた陶工が……」くらいの、曖昧な書き方をされていることが多い)。
さて、この壬辰戦争はじつは当時、世界最大級の大戦争であり、朝鮮側にとっては青天の霹靂でもあった。
室町時代後半の日本は戦国時代と言われるとおり、100年以上にわたって、日本全国がゆうに100を超える(一説には200とも言われる)小領国に分かれて戦火を交えていて、大陸から見れば「小さな国がさらに細分化して争って、どうするのだ」といった、グチャグチャな状態だったわけである。
それが16世紀終盤にいっきに統一されて、当時の世界有数の軍事大国になり、隣国に攻め入った。世界史を見渡すと、内戦が終われば対外拡張政策がとられるのはよくあることだ。
しかし、朝鮮王朝としては、これまで「格下扱いしてきた、小領国に分裂していた島国」が、いきなり自分を攻めてくるなどとは夢にも思わない。
なにせそのときまで、日本が朝鮮半島に攻め込んだことは、海賊の倭寇(わこう)を除き、なかったのだ(後述する白村江(はくそんこう)の戦いは、百済(くだら)系の主導だった)。
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