数学者オイラーが視力を失っても平気だった理由 とんでもない記憶力と計算力を持つ孤高の天才

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しかし、オイラーやガウスが生きた18世紀から19世紀の前半は、現在とは異なり、まだ「数学者として生きていく」ことは難しかった。有力貴族の庇護、スポンサーを必要とした時代だ。

各地に学校は存在しても、そこでは必ずしも数学が正式教科として教えられていたわけではなく、数学の教授職も少なかったからだ。では、「彼らが数学で生きていける場所はどこに存在したのか?」といえば、そのひとつが「王立アカデミー」だった。

王立アカデミーは、文化・芸術・学問に理解をもつ“進歩的な王様” の庇護のもと、ヨーロッパ各地で開設され始めていた。イギリスの王立協会(ニュートンなどが会長)、フランスの科学アカデミー、プロイセン科学アカデミー(ライプニッツが創設)、そしてロシアのピョートル大帝が西欧に追いつくために創設したサンクトペテルブルクのアカデミーなどがあった。

実際、オイラーほどの数学者でさえ、地元のバーゼル大学(スイス)では数学職を求めることができず、オイラーのよき理解者ベルヌーイ兄弟によってサンクトペテルブルク・アカデミーを紹介され、たまたま数学の教授職に就くことができ、生活の糧を得られたにすぎない。

印刷が間に合わないほどの論文量

そんなオイラーは、「数学史上、最多の論文数を量産した」といわれている。50年間で総計886編、5万ページにのぼり、平均すると、1年間に800ページ以上の論文を書いたことになる。

数学者図鑑
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あまりに速いので印刷が間に合わず、印刷業者が重ねられた論文のいちばん上にあったものを持ち帰ったため、執筆順とは異なる形で印刷されたこともあるという。また、「食事です」といわれてから、再度「食事ですよ」と催促されるまでの間に1本書き上げたという。

このため、オイラーの死後240年近くたった現在でも、いまだに『オイラー全集』が完結していない。パリアカデミーの優秀賞を12回受賞しており、まさにオイラーの論文は質・量ともに数学史上、最高といってよいだろう。

1783年9月18日、オイラーはハーシェルが発見した天王星(1781年)の軌道計算をしていたとき、「死ぬよ」といって息を引き取った。オイラーは計算することをやめ、人生を終えた。フランス革命が起こる6年前、日本では江戸時代に浅間山が爆発した年に当たる。

(イラスト:『数学者図鑑』より
本丸 諒 サイエンスライター

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ほんまる りょう / Ryo Honmaru

横浜市立大学卒業後、出版社に勤務し、サイエンス分野を中心に多数のベストセラー書を企画・編集。独立後、編集工房シラクサを設立。サイエンス書を中心としたフリー編集者としての編集力と、「理系テーマを文系向けに<超翻訳>する」サイエンスライターとしてのライティング技術には定評がある。日本数学協会会員。著書(共著を含む)に、『意味がわかる微分・積分』(ベレ出版)、『数と記号のふしぎ』『マンガでわかる幾何』(SBクリエイティブ)、『統計学はじめの一歩』(かんき出版)、『文系のための統計学の教科書』(ソシム)、『すごい! 磁石』(日本実業出版社)などがある。

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