ま、お気持ちはよーくわかります。
だって私だって、まさか自分の人生において冷蔵庫を手放す日が来るなんて、半世紀にわたりこれっぽっちも想像したこともなし。原発事故後に超節電生活を志すようになってからも、さすがに冷蔵庫にまで手をつけるつもりなどまったくなかった。
だってまさしく、そんなことしたら食べていけない、すなわち生死をかける決断と信じて疑わなかったのだ。そこまでやるのはどう考えても「やりすぎ」である。
それがまあいろいろありまして(これを語るとまた長くなるので、万一詳しく知りたい方がおられましたら拙著『寂しい生活』をパラパラとお読みください)、その「まさか」の「やりすぎ」に手を染めて今に至る。
で、結論から申し上げる。
私は今や、冷蔵庫のメリットを一つとて思い浮かべることができない。
冷蔵庫をやめたこと自体が「打ち出の小槌」
さらに言えば、「冷蔵庫をやめたら生きることに支障が出る」どころか、現実はその真逆だったと確信するものである。そうなのだ。もし冷蔵庫をやめていなければ、これから死ぬまでのわが人生には数々の支障が出まくっていたに違いない。
だってまずわかりやすいところから言えば、冷蔵庫をやめたことで食べ物を腐らせることが一切なくなったばかりか、料理にかける時間が劇的に減ったことはこれまで書いたとおりである。それだけでも、この人生下り坂の局面において、つまりは気力も体力もどんどん衰えていくばかりの局面において、いきなり貴重なお金と時間がごそっと私の手元に転がり込んできたということにほかならない。
いやはやこんな美味しいことがあっていいのかねと思わずにはいられないではないか。つまりは冷蔵庫をやめたこと自体が「打ち出の小槌」となったのである。
で、面白いのは、その奇跡を生み出す原動力は、「貯めておけなくなる」という、一見不便としか思えないことにあるということだ。
確かに、貯めておけないとなればその日に必要なものだけをちょこまかと買うしかないのであり、それは不便といえばそうかもしれない。でも実際にやってみれば、自分が生きていくのに必要なものが驚くほど「ちょっと」しかないことに驚くことになる。
そうとわかれば、食べきれないものを際限なく買うなどという謎な行動など取りようがない。つまりは買い物そのものが減ってしまう。となれば不便どころかむしろ生活はグッと楽になる。
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