大久保利通が倒幕後「大阪遷都」熱弁した納得理由 明治天皇に初めて拝謁したときには涙を流した

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倒幕後、大久保利通(左)は大阪(右)への遷都を主張していました。いったいなぜなのでしょうか(左写真:photo123/PIXTA、右写真:genki/PIXTA)
倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
大久保利通は、はたしてどんな人物だったのか。その実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第26回は、大久保利通が京都から大阪への遷都を目指していた理由について解説する
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<第25回までのあらすじ>
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだが、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り、島流しにあっていた西郷隆盛が戻ってこられるように説得、実現させた。
ところが、戻ってきた西郷は久光の上洛計画に反対。勝手な行動をとり、再び島流しとなる。一方、久光は朝廷の信用を得ることに成功。大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫るため、朝廷側のキーマンである岩倉具視に「勅使派遣」を提案。それが受け入れられ、勅使には豪胆な公卿として知られる大原重徳が選ばれた。
得意満面な大久保を「生麦事件」という不測の事態が襲うが、実務能力の高さをいかんなく発揮し、その後の薩英戦争でも意外な健闘を見せ、引き分けに持ち込んだ。
勢いに乗る薩摩藩。だが、その前に立ちはだかった徳川慶喜の態度をきっかけに、大久保は倒幕の決意を固めていく。閉塞した状況を打破するために尽力したのが、2度目の島流しにあっていた西郷の復帰だった。復帰後、西郷は勝海舟と出会い、それまでの長州藩討伐の考えを一変。坂本龍馬との出会いを経て、薩長同盟を結び、大久保と西郷は倒幕への動きを加速させる。
武力による倒幕の準備を着々と進める大久保と西郷。ところが慶喜が打った起死回生の一策「大政奉還」に困惑。さらに慶喜の立ち回りのうまさによって、薩摩藩内でも孤立してしまう。
一方、慶喜もトップリーダーとしての限界を露呈し、意に反して薩摩藩と対峙することになり、戊辰戦争へと発展。初戦の鳥羽・伏見の戦いでは新政府軍が勝利した。

迅速、かつ、慎重に事を運ぶのが得意分野

大阪に都を移す――。

鳥羽・伏見の戦いでの勝利が決まると、大久保はすぐに遷都、つまり、都を京から移すことを検討している。大久保が新たな都としてもっともふさわしいと考えた場所が、外国と交易がしやすい「大阪」だった。

しかし、ただでさえ、新政府による改革は薩摩主導と見られやすい。スタンドプレーだと見なされると、他藩からの反感を買う。一方で、タイミングを逸すると、保守的な公家たちによって、現状維持で押し通されてしまうだろう。

迅速、かつ、慎重に事を運ぶのは、大久保の得意分野だ。動き出しは早かった。慶応4(1868年)年1月17日、有栖川宮熾仁親王を総裁とする新政府の体制が発足。総裁の諮問にこたえるかたちで「天皇は大阪に向かわれたほうがよいのでは」と、大久保は提案している。鳥羽・伏見の戦いで勝利が決まったわずか10日後のことだ。

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