「天皇は西欧の君主のように、国中を親しく視察し、国民を大切に育てる必要があります。そのためにも、天皇は国民みんなに愛されなければなりません」
何も天皇を引きずり降ろそうというわけではない。ただもっと近い距離で接することで、国民をあるべき方向に導いてほしい。そのためにはどうすればよいのか。大久保はここぞとばかりにたたみかける。
「そのためには京都からの遷都が必要です。外国と交わりやすく、富国強兵を行って天皇が陸海軍を率いることにおいては、大阪の地がふさわしい」
これこそが大久保の要望である。なぜ京から大阪へと都を移すべきなのか。見事な論理構成だといえよう。
大久保の提言に対して、公卿や諸侯たちからは大きな反発の声があがった。大久保のねらいは明確だ。提言のまま表現すれば「因循ノ腐臭」、つまり、「凝り固まった古いしきたりの腐臭を一新する」。合理的な大久保からすれば、天皇の窓口として存在感を発揮する、公卿や諸侯など中間にいる人間は、邪魔でしかなかった。
だが、排除される側の公卿や諸侯たちが黙っているわけがない。前内大臣の久我建通は、大久保をののしっている。
「遷都は薩摩のくわだてである。これを機に長州と組み、自分たちの権利を拡大しようとしている」
この物言いに、大久保は猛抗議をして発言を取り消させた。だが、公卿や諸侯たちの反発が強く、大阪遷都は却下されている。
第2の案を持っているのが大久保利通
それでも大久保は第2の案を持っているのがつねである。このときも天皇の大阪行幸という折衷案を出し、岩倉の協力のもと実現へと漕ぎつけた。
3月21日、約1700ものお供を引き連れて、明治天皇は京都御所を出発。23日には、大阪御堂筋の本願寺津村別院に入り、40日あまり滞在した。このときに大久保は初めて明治天皇への拝謁が許されている。
「人心は安定し、兵は訓練に励んでいます。関東の情勢についても、徳川が恭順しており、落ち着いております」
大久保は明治天皇を前にして、そんな奉答を冷静に行ったが、内心では感極まっていた。忘れられない日となった4月9日の日記に、大久保は「玉坐ヲ奉穢候義絶言語恐權之次第余一身仕合候。感涙之外無之」と心境を綴っている。
「私のような身分のものが天皇に拝謁できるとは、恐縮の至りで身に余る光栄で、感涙するほかはない」
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