木曽義仲が実現「都落ち」平家はなぜ西に下った? 実は当時の人も実感していた「盛者必衰の理」
寿永2(1183)年5月、越中と加賀の国境の倶利伽羅峠の戦いで、平維盛(平清盛の長男である平重盛の長男)率いる追討軍を打ち破った木曽義仲は、破竹の勢いで、都に向けて進撃する。しかし、その途上には、比叡山延暦寺という権門が立ちはだかっていた。
近江の延暦寺が、平家に味方するのか、義仲につくのか。義仲はそのことが気がかりであった。
そこで、義仲は僧侶で書記の大夫房覚明に、延暦寺に対する通告文を書かせ、同寺に示す。通告文には「平家に味方するのか、源氏に味方するのか、もし平家に助力するのであれば、我々と合戦する事になる。合戦になれば延暦寺は瞬く間に滅亡するだろう」と記されていた。脅迫的なものであったが、延暦寺は平家を見捨て、義仲につく。時勢を鑑みた判断であろう(『源平合戦で木曽義仲の活躍支えた「謎の参謀」正体』参照)。
平家物語に記された、都の不穏な状況
6月18日には、義仲の軍勢は近江国に到着していた。延暦寺と提携した義仲は、7月中旬には、いよいよ都に侵入する構えを見せる。
それに対し、平家方は、平忠度(平清盛の弟)・資盛(平重盛の次男)、知盛(清盛の四男)、重衡(清盛の五男)などの一門を各所に配し、防備を固めていた。すでに、7月上旬から、木曽軍が都に乱入するのではとの噂が流れている。7月も下旬になると、ますます不穏な状況となり、都の人々は恐慌した。その様子を古典『平家物語』は次のように記す。
「寿永2(1183)年7月22日の夜半ごろ、京都六波羅の近辺が騒がしくなった。人々は、馬に鞍をおき、腹帯を締め、家財を四方に運び隠した。今にも敵が攻め込んでくるかのようなありさまである」(『平家物語』を筆者が現代語訳)
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