木曽義仲が実現「都落ち」平家はなぜ西に下った? 実は当時の人も実感していた「盛者必衰の理」

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「一門の運命は最早、尽きました。しかし、いずれ、世が治まりましたら、勅撰集の御沙汰がございましょう。ここに持参した巻物の中に、しかるべき歌がございましたら、一首でもお情けをかけていただけたなら、どれほどうれしいことかと思います」

天皇の命令により編纂される和歌集に、もしよければ自作の和歌を入れて欲しいと言うのである。

俊成はそれを受けて「このような忘れ形見をいただいた以上は、決して、なおざりには致しません」としみじみ答えたので、忠度は「もはや、この世に思い残すことはございません」と言うと、再び馬上の人となるのであった。

『千載和歌集』に掲載された忠度の歌

忠度の歌は、後白河院の命により編纂された『千載和歌集』に収載される。

「さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな(志賀の旧都=古代の近江大津宮はすっかり廃墟となってしまったが、長良山の山桜ばかりは、昔と変わらず咲いている)」

『千載和歌集』が完成したときには、忠度はこの世にはいなかったが、朝敵となっていたこともあり「詠み人知らず」として掲載された。

平家は都から落ちた。平清盛の時代、平家一門は隆盛を極め、全国に多くの荘園を保有し、日宋貿易によって莫大な利益を手にしていた。清盛義弟の平時忠が「この一門にあらざる者は皆人非人なり」と言い放ったことは著名であるが、それも今は昔。平家一門は流浪の日々を送ることになる。

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数
X: https://twitter.com/hamadakoichiro
 

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