木曽義仲が実現「都落ち」平家はなぜ西に下った? 実は当時の人も実感していた「盛者必衰の理」
「一門の運命は最早、尽きました。しかし、いずれ、世が治まりましたら、勅撰集の御沙汰がございましょう。ここに持参した巻物の中に、しかるべき歌がございましたら、一首でもお情けをかけていただけたなら、どれほどうれしいことかと思います」
天皇の命令により編纂される和歌集に、もしよければ自作の和歌を入れて欲しいと言うのである。
俊成はそれを受けて「このような忘れ形見をいただいた以上は、決して、なおざりには致しません」としみじみ答えたので、忠度は「もはや、この世に思い残すことはございません」と言うと、再び馬上の人となるのであった。
『千載和歌集』に掲載された忠度の歌
忠度の歌は、後白河院の命により編纂された『千載和歌集』に収載される。
「さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな(志賀の旧都=古代の近江大津宮はすっかり廃墟となってしまったが、長良山の山桜ばかりは、昔と変わらず咲いている)」
『千載和歌集』が完成したときには、忠度はこの世にはいなかったが、朝敵となっていたこともあり「詠み人知らず」として掲載された。
平家は都から落ちた。平清盛の時代、平家一門は隆盛を極め、全国に多くの荘園を保有し、日宋貿易によって莫大な利益を手にしていた。清盛義弟の平時忠が「この一門にあらざる者は皆人非人なり」と言い放ったことは著名であるが、それも今は昔。平家一門は流浪の日々を送ることになる。
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