木曽義仲が実現「都落ち」平家はなぜ西に下った? 実は当時の人も実感していた「盛者必衰の理」

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

『玉葉』の著者、九条兼実はこの光景を「盛衰の理、眼に満ち耳に満つ」と書いたが、まさしく『平家物語』が語る「盛者必衰の理」を同時代の人も実感していたのである。

さて、25日の夕方になって、資盛、維盛らの軍勢は京に帰ってくるが、彼らはすぐに都落ちしなかった。比叡山に入った後白河院の指示を得ようとしたのだ。しかし、連絡はとれず、彼らは翌朝に京を出て、平家軍の本隊に合流するのであった。

都落ちの連絡をもらえなかった清盛の異母弟・頼盛

清盛の異母弟・頼盛は、宗盛から都落ちの連絡がもらえず、京にとどまることになる。都落ちは、平家一門の分裂を露呈させたのである。『平家物語』は、都を去る平家の人々の情感を描いている。平忠度(清盛の異母弟)は、侍五騎、童1人を連れて、いったん都に戻ってくる。師事していた歌人・藤原俊成に会うためである。

俊成の屋敷の門は固く閉じられ「忠度です」と名乗っても、中では「落人が帰ってきたぞ」と騒ぎ合うばかり。しかし、京の人々が怖がるのも当然で、都落ち後の京都は物盗りが倍増し「天下すでに滅亡」(『玉葉』)と評されるほど、治安が悪化していた。忠度も強盗か何かと間違えられたのだろうか。

らちが明かないと見た忠度は、馬から降りて懇切に「別儀はございません。ただ、俊成様に申し上げたいことがあり、参上しました。門を開かれずとも、せめて門の際までお立ち寄りいただければ」と告げるのである。

俊成は「忠度殿なら差し支えない」と言い、門の中に招き入れる。俊成との対面で忠度は言う。

次ページ何と言ったのか?
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事