木曽義仲が実現「都落ち」平家はなぜ西に下った? 実は当時の人も実感していた「盛者必衰の理」

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迫りくる義仲軍に対し、平家方には援軍は少なく、そればかりか裏切り者が出る始末であった。摂津国の多田行綱は、平家と協調してきたにもかかわらず、突如、変心し、反乱軍に加勢するのである。しかも多田は摂津国河尻の船を差し押さえ、平家が海上に出るのを防ごうと動く。

袋の鼠になる前に、西国へ下る必要があると考えた平家の棟梁である平宗盛(平清盛の三男)は、敵を迎え撃つことを止めて、都を離れることを決意する。

まず、出陣していた一門の諸将を京都に呼び戻そうとした。宗盛は平資盛を呼び戻そうとするが、その方法は一風変わっていた。「資盛の軍勢は後白河院から派遣されているので、院から帰京の命令を出してほしい」と宗盛は依頼したのである(『吉記』)。

つまり、宗盛は資盛を命令で動かすことはできなかったのだ。院司の高階泰経が資盛に帰京を命じることになるが、このことを見ても、平家軍の脆弱性をうかがうことができよう。

亡き平重盛の母は高階基章の娘、一方、宗盛の母は清盛の正妻・時子。宗盛が平家一門の家督を継いだことによって、重盛の子息たちは平家の中で、微妙な立場に追い込まれていたことが想像できる。

後白河院が平家に与えた衝撃

さて、宗盛による一門帰京命令を見た後白河院は、近く平家は都落ちするものと考え、それに巻き込まれまいとした。7月24日の夜に法住寺を抜け出し、比叡山に登ったのである。法皇が逃げてしまったことに平家の人々は衝撃を受ける。

それならば、と平家はわずか6歳の安徳天皇とその母・建礼門院を西国に連行することになる(三種の神器も持ち出された)。

平家は都落ちに際して「六波羅、西八条などの舎屋を一所も残さず、焼き払った」(『玉葉』)。よって一時、煙が天に満ちたような状態となったという。7月25日午前、平家は慣れ親しんだ京都を離れた。

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