特定の藩がイニシアチブをとりすぎると、必ず不満の声が上がり、まとまりがなくなってしまう。そのことは「王政復古の大号令」でクーデターを起こしたときに「薩摩による横暴」ととらえられて孤立したことからも、肝に銘じたことなのだろう。
実際に「会津領2万石を薩長の軍資にせよ」という決定が朝廷でなされると、大久保はこれを辞退した。西郷もまた大久保と同様に、反薩摩感情の高まりに警戒し、自藩の力を誇示することだけは避けようとした。
鳥羽・伏見の戦いの直後にあたる1月17日には、薩摩藩藩主の島津忠義には海陸軍総督、西郷には海陸軍掛と微士という任務が与えられるが、西郷は藩主を説得してまで、これをともに辞退している。
慎重の上にも慎重を期す。まさに「勝って兜の緒を締めよ」を実践したといえよう。
あっさりと「攘夷」を捨てた新政府
西国をまとめあげながら、大久保は欧米列強への対応にも着手している。
徳川慶喜は政権を失ってもなお、外国との関係性を武器に、政治力を保とうとしていた。もうそのようなことがないようにと、大久保は薩摩藩士の寺島宗則を通じて、欧米列強に朝廷政府を公認するように働きかけた。
明治維新により欧米化が進んだことを知っている私たちはつい見過ごしがちだが、当時からすれば、これは大きな転換であった。なぜなら、倒幕を行うにあたって掲げたスローガンは「尊王攘夷」である。江戸幕府の弱腰外交への不満が、倒幕の原点にあったはずだ。
それなのに、新政府はあっさりと「攘夷」を捨てて、幕府の外交方針を引き継いで、外国と友好的な関係を結ぼうとしているのだ。攘夷を信じた者からすれば、不満の声が上がって当然である。
幕末期の薩摩藩士、有馬藤太の聞き書きを編纂した『私の明治維新』(上野一郎編)には、実に興味深いやりとりが記録されている。戊辰戦争が始まったときのことだ。同じく薩摩藩士の中村半次郎(のちの桐野利秋)は、岩倉具視からこう問われた。
「幕軍は3、4万もいるが大丈夫か」
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