戊辰戦争、3倍の敵圧倒「西郷と大久保」何をした? 開戦前からしたたかな準備、慶喜は敗戦後逃亡

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西郷隆盛(左)と大久保利通(右)(左写真:PhotoNetwork/PIXTA、右写真:iLand/PIXTA)
倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
大久保利通は、はたしてどんな人物だったのか。その実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第24回は戊辰戦争の初戦、鳥羽・伏見の戦いにおける大久保の活躍についてお届けする。
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<第23回までのあらすじ>
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだが、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り、島流しにあっていた西郷隆盛が戻ってこられるように説得、実現させた。
ところが、戻ってきた西郷は久光の上洛計画に反対。勝手な行動をとり、再び島流しとなる。一方、久光は朝廷の信用を得ることに成功。大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫るため、朝廷側のキーマンである岩倉具視に「勅使派遣」を提案。それが受け入れられ、勅使には豪胆な公卿として知られる大原重徳が選ばれた。
得意満面な大久保を「生麦事件」という不測の事態が襲うが、実務能力の高さをいかんなく発揮し、その後の薩英戦争でも意外な健闘を見せ、引き分けに持ち込んだ。
勢いに乗る薩摩藩。だが、その前に立ちはだかった徳川慶喜の態度をきっかけに、大久保は倒幕の決意を固めていく。閉塞した状況を打破するために尽力したのが、2度目の島流しにあっていた西郷の復帰だった。復帰後、西郷は勝海舟と出会い、それまでの長州藩討伐の考えを一変。坂本龍馬との出会いを経て、薩長同盟を結び、大久保と西郷は倒幕への動きを加速させる。
武力による倒幕の準備を着々と進める大久保と西郷。ところが慶喜が打った起死回生の一策「大政奉還」に困惑。さらに慶喜の立ち回りのうまさによって、薩摩藩内でも孤立してしまう。一方、慶喜もトップリーダーとしての限界を露呈する。

薩摩藩の挑発にまんまと乗せられた旧幕府軍

新政府が樹立されようとも、実権がなければ何もできない。強大な徳川家から領地を奪うはずが「慶喜同情論」が巻き起こり、むしろ倒幕派の大久保利通や西郷隆盛のほうが、浮いてしまっていた。薩摩藩内からも孤立する2人を見て、徳川慶喜はほくそ笑んだことだろう。

もはや倒幕は果たされて、長きにわたる徳川の世にピリオドが打たれたのだ。もうこれ以上、徳川家を追い詰めることはないじゃないか。新政府の周辺では、重要ポジションに慶喜を据えることを歓迎するムードすら漂っていた。

諸外国との対応も慶喜が大阪城で一手に引き受けている。あとは、このまま動かなければ、実質的な「勝利」は慶喜の手に落ちるのが確実となった。満を持して慶喜が再上洛を果たそうとした、まさにそのとき起きたのが「江戸薩摩藩邸焼き討ち事件」である。

薩摩藩の挑発にまんまと乗せられたことも気づかず、旧幕府軍が盛り上がるのを、慶喜はただ見つめることしかできなかったらしい。慶喜にインタビューした渋沢栄一は次のように綴っている。

「事ここに至っては、公の力も討薩論の鋭鋒を挫きがたく、空しく手をこまねいて傍観するをえなかった」(『徳川慶喜公伝』)

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