倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
大久保利通は、はたしてどんな人物だったのか。その実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第23回は王政復古の大号令後の徳川慶喜の行き詰まりと大久保の真骨頂についてお届けする。
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<第22回までのあらすじ>
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだが、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り、島流しにあっていた西郷隆盛が戻ってこられるように説得、実現させた。
ところが、戻ってきた西郷は久光の上洛計画に反対。勝手な行動をとり、再び島流しとなる。一方、久光は朝廷の信用を得ることに成功。大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫るため、朝廷側のキーマンである岩倉具視に「勅使派遣」を提案。それが受け入れられ、勅使には豪胆な公卿として知られる大原重徳が選ばれた。
得意満面な大久保を「生麦事件」という不測の事態が襲うが、実務能力の高さをいかんなく発揮し、その後の薩英戦争でも意外な健闘を見せ、引き分けに持ち込んだ。
勢いに乗る薩摩藩。だが、その前に立ちはだかった徳川慶喜の態度をきっかけに、大久保は倒幕の決意を固めていく。閉塞した状況を打破するために尽力したのが、2度目の島流しにあっていた西郷の復帰だった。復帰後、西郷は勝海舟と出会い、それまでの長州藩討伐の考えを一変。坂本龍馬との出会いを経て、薩長同盟を結び、大久保と西郷は倒幕への動きを加速させる。
武力による倒幕の準備を着々と進める大久保と西郷。ところが慶喜が打った起死回生の一策「大政奉還」に困惑。さらに慶喜の立ち回りのうまさによって、薩摩藩内でも孤立してしまう。
旧幕府軍との武力衝突へ裏工作を行った大久保と西郷
大政奉還によって政権が江戸幕府から朝廷に返上され、「王政復古の大号令」で、新政府が発足してもなお、大久保利通は、第15代将軍の徳川慶喜にとどめを刺すことはできなかった。
それどころか追い詰められていたといってもよい。名を捨てて実を取るべく、慶喜は薩摩藩を中心とした倒幕派にけしかけられても、決して戦いのリングには上がらなかった。ファイティングポーズをとらなければ、打ち倒されることはないと、慶喜はよく知っていたのだ。
しかし、慶喜の老獪な戦術は、旧幕府内で共通理解があったわけではない。慶喜は諸外国との良好な関係性をテコにして、新政府を揺さぶることに成功していたが、表向きはむしろ、追い詰められているようにも見える。慶喜とともに大阪城へ入った幕臣たちは、歯がゆい思いをしていたことだろう。
大久保と西郷は、薩摩藩内からも孤立させられていたが、なんとか旧幕府軍と戦火を交えられるように裏では工作を行っていた。西郷が薩摩藩士の益満休之助や伊牟田尚平らを江戸に派遣。2人は慶応3年10月、まさに大政奉還が行われる直前の時点で、すでに三田の薩摩藩邸に入り、広く浪人を募集している。
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