浪士隊募集の名目は「天璋院様御守衛」とされた。薩摩藩島津家から13代将軍の徳川家定の御台所に送り込まれた天璋院(篤姫)のガードマンを集める、というのが大義名分だ。薩摩藩主の島津斉彬が苦心して作った江戸幕府とのパイプが、ここでも生かされることになった。
だが、浪士隊の真の目的は「江戸で暴れまわり、旧幕府軍を挑発して攻撃させる」ことにほかならない。この呼びかけに血気盛んな者たちが応えて、500人もの浪士隊が結成。11月中旬頃から、組織的な挑発行為が行われた。
浪士隊の幹部には、のちに赤報隊で隊長を務める相楽総三も名を連ねている。のちに明治新政府によって無残に切り捨てられるなど、このときの相楽は知る由もなかった。
辻斬り、強盗、放火……。浪士隊は江戸の街であちこち犯罪行為を行い、取り締まる旧幕府を挑発した。大久保が策を練り、西郷が実行部隊を指揮したとみられている。捕吏にわざと見つかるようにして、追われれば、薩摩藩邸へと逃げ込んだという。
西郷は謀略を止めようとしていた?
倒幕へのターニングポイントとなった大久保や西郷がもくろんだとされる、江戸での犯罪行為には、いくつかエクスキューズがなされることもある。1つは、乱暴狼藉を働くターゲットとして、次のように定められていたというものだ。
「一に幕府御用達商人、二に浪士取締にあたった庄内藩とその指揮に従った新徴組、新整組そして幕府別手組など、三に横浜貿易商人にかぎって尊王攘夷の天誅を加える」(『薩邸事件略記』)
併せて、浪士隊の隊規には「私欲で財産を略奪するのは禁じる」(「唯私欲ヲ以テ人民ノ財貨ヲ強奪スルヲ許サズ」)とも定められている。そのため「無差別に暴れまわったわけではない」というわけだが、略奪が横行するなかで、そんな線引きを行うのは、現実的に困難だったと思われる。
そのほか、「浪士隊」の名を語った偽者が暴れまわった可能性も指摘されるが、それは十分に予想できたはずだ。いや、むしろ、それを期待したといったほうがよいだろう。
また「西郷ら薩摩藩は浪士隊の暴挙をむしろ止めようとしていた」とする見方もある。事実、大政奉還の実現を受けて、薩摩藩は工作の停止を指示していた。 大政奉還によって政情がどう変わるのかを、見極めようとストップをかけたのだろう。
だが実際には、大政奉還で慶喜の勢いがそがれることはなく、むしろ政治の主導権を握り続けた。現場の暴走はあったにせよ、武力制圧の必要性がむしろ高まるなかで、本気でストップをかけようしたのかどうか。止めるポーズをとりながらも、実質的には、黙認されたのではないだろうか。
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