ようやく薩摩藩に一矢報いることができた。そう考えた者が少なくなかったのだろう。「戦勝」は28日には、慶喜のいる大阪城まで届けられている。大阪城に滞在していた会津藩や桑名藩の両藩兵や旧幕府将士たちは快哉の声を挙げた。「打倒薩摩!」とばかりに京都へ意気揚々と進軍する旧幕府軍を、慶喜は止めることができなかった。
慶応4年1月1日、西郷は親しい間柄の蓑田伝兵衛に手紙を書いた。そこでは、薩摩藩邸の焼き討ちについて「大いに驚愕した」とし「残念千万の次第に御座候」と綴られている。
このことから「やはり江戸での謀略は西郷にとって計算外だった」と考える向きもあるが、ややピュアすぎるのではないか。実際に焼き討ちで死者も出ていることを考えれば、そう書くのはむしろ自然のように思うし、薩摩藩邸の焼き討ち自体は、大久保や西郷にとって意外な「朗報」で驚いたにすぎない。
ただし、西郷は12月28日、ちょうど焼き討ちが知らされる直前に書いたと思われる、蓑田への手紙で「めどがついたら帰国したい」と漏らしている。「徹夜続きの朝議で疲れた」ともあり、リセットしたかったのだろうか。何かと情緒が揺れがちな西郷に、武力制圧を諦めかけたり、江戸での工作に消極的になったりした局面があったとしても不思議ではない。
一度決めたら躊躇することはなかった大久保
それに比べて、大久保の意思は恐ろしく強靭である。慶喜のしぶとさに悲嘆の声を上げることはあっても、武力による倒幕を決意して以来、それを諦めようとした節は見られない。
大久保が明治新政府で大きな影響力を誇るようになってからのことだ。何人かの部下が大久保について「一度やろうと決めたことを変更されるのを最も嫌った」と証言している。内務省で大久保の片腕だった前島密は、こんなふうに表現している。
「よく人にも計り、人の言をも容れた人で、一事を断裁するにも念に念を入れる流儀であったが、ただ裁決した以上は、もう何事が起こっても気が迷う、躊躇するということはなかった」
気の迷いもなければ、後退することもない。目標を定めれば、はいつくばってでも前進する。そんな大久保の積み重ねが、旧幕府軍との全面対決をついに呼び込むことになった。
(第24回につづく)
【参考文献】
大久保利通著『大久保利通文書』(マツノ書店)
勝田孫彌『大久保利通伝』(マツノ書店)
松本彦三郎『郷中教育の研究』(尚古集成館)
西郷隆盛『大西郷全集』(大西郷全集刊行会)
日本史籍協会編『島津久光公実紀』(東京大学出版会)
徳川慶喜『昔夢会筆記―徳川慶喜公回想談』(東洋文庫)
渋沢栄一『徳川慶喜公伝全4巻』(東洋文庫)
勝海舟、江藤淳編、松浦玲編『氷川清話』 (講談社学術文庫)
佐々木克監修『大久保利通』(講談社学術文庫)
佐々木克『大久保利通―明治維新と志の政治家 (日本史リブレット)』(山川出版社)
毛利敏彦『大久保利通―維新前夜の群像』(中央公論新社)
河合敦『大久保利通 西郷どんを屠った男』(徳間書店)
家近良樹『西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手にせよ』 (ミネルヴァ書房)
渋沢栄一、守屋淳『現代語訳論語と算盤』(ちくま新書)
鹿児島県歴史資料センター黎明館 編『鹿児島県史料 玉里島津家史料』(鹿児島県)
安藤優一郎『島津久光の明治維新 西郷隆盛の“敵"であり続けた男の真実』(イースト・プレス)
萩原延壽『薩英戦争 遠い崖2 アーネスト・サトウ日記抄』 (朝日文庫)
家近良樹『徳川慶喜』(吉川弘文館)
家近良樹『幕末維新の個性①徳川慶喜』(吉川弘文館)
松浦玲『徳川慶喜―将軍家の明治維新増補版』(中公新書)
平尾道雄『坂本龍馬 海援隊始末記』 (中公文庫)
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