1956年の売春防止法制定に至るまでの議論の中には、「売春は性差別である」という婦人解放論からの主張とは別に、キリスト教矯風会を中心とする女性たちから「売春は道徳的に許されない」との強い売春反対論がありました。
彼女たちは(キリスト教的な)道徳から考えて、性を売ることは許されず、売春婦というのは、(意に反した場合もあるとはいえ)堕落した、もしくは救済すべき存在だと考えたのです。売春をする女性を「醜業婦」と呼んだのは、そうした考えを反映するものです。
そして、今回の日本テレビの「清廉性が求められる」という発想は、このキリスト教矯風会の「醜業婦」という視線を思い起こさせる時代錯誤的なもので、非常に差別的な考え方であると考えます。そもそも何をもって「清廉性」と呼ぶのでしょうか?
「職業に貴賎はない」などというのは当然のことです。ホステスが仮にセックスワークだったとして、それが「清廉性」に欠けるというのであれば、セックスワークに従事する人たちすべてを差別するものです。よりによって報道に携わるアナウンサーについて、そうした視点から内定を取り消すというのは、メディアとしての自殺行為であると考えます。
今回は訴訟になっていますので、法律論では「ホステスという職歴」が、内定を取り消す「理由」として「社会通念上妥当か」が問われることになります。この場合の「社会通念」とは、「わいせつ」という概念が時代とともに変わっていくことと同じように、その社会の意見の分布を踏まえたもので、それに基づいて「社会として許容されるかどうか」を判断することになります。
しかしセックスワーク論の立場から見れば、そもそも「清廉性」なるものを特定の職業にのみ要求し、かつ性にまつわる特定の職業について「清廉性がない」と判断すること自体を、言葉の正しい意味において「差別だ」と断罪せざるをえません。
男性アナウンサーは全員、風俗未経験なのか
性別を逆にして考えれば、仮にキャバクラでアルバイトをしたことのある女子学生が、アナウンサーとして不適格なのなら、キャバクラに通っていた男子学生も、アナウンサーとして不適格なのではないでしょうか? 売る側と買う側で評価を変える理由がどこにあるのでしょうか? テレビ局は志望する男子学生にどのような風俗産業に通ったかを申告させるのでしょうか? もう一歩踏み込めば、たとえばAVに出ることと見ることに、何の違いがあるというのでしょうか? 逆にもし「清廉性は女性のみに求められる」と言うのであれば、それこそ性差別であるはずです。
『「AV女優」の社会学』や『キャバ嬢の社会学』。こうした「前歴」を理由として、もし大学が彼女たちに対して差別的な扱いをするとすれば、学内で大きな問題となるでしょう。『「AV女優」の社会学』の筆者である鈴木氏に関しては、先日ある週刊誌が職歴を暴く卑劣な暴露記事を出しましたが、これはこうしたプライバシーを暴く側が問題なのであって、鈴木氏の責任ではありません。
それとまったく同じ論理から、あくまでも、問題なのは女子学生のアルバイト歴ではなく、特定の職業をおとしめる日テレの姿勢にあるのです。「醜業婦」のごとく見なす視線と、買う側の男性を不問とする性差別。なぜ女性のアナウンサーにのみ、内実の不明な「清廉性」なるものを求めるのか、日本テレビの姿勢が問われているのではないでしょうか?
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