でもそれは悪夢でもなんでもなくて、現代とはまさしくそういう社会なのである。若くて元気なうちは便利に使われて、でもちょっとくたびれてきたらたちまち持てあまされて邪魔にされて、いよいよお役御免になったら「役に立たないオニモツ」として家族からも社会からも相手にされない……まったくひどい現実だけど、そんな現実を変えることなど誰にもできない。
ああまったく人生は厳しい。厳しすぎるよ……と思いながら、限界まで着すぎて首回りがビヨーンとヨレヨレになった無印良品の綿の下着をハサミでジョキジョキと切る私。君はどう見てもゴミのように見えるかもしれないが、まだゴミじゃない、まだまだ働いて役に立つことができるんだよと、下着に言い聞かせているんだか、自分に言い聞かせているんだか、もはやよくわからないひと時。
でもそのよくわからないひと時が、確実に私を救ってくれているんじゃないだろうか?
人生がどれほど厳しくとも、少なくとも自分の目の前のものたちが、最後の最後まで大事にされて役に立って「あの世」へと旅立っていく姿を連日目の当たりにすることはできる。
そんなことを繰り返していると、そうだよこうやって私も人生を全うしていけば良いのだ、他人にはどのように見られようとも、せめて自分は自分を見放さず、最後までしぶとく元気に世のお役に立とうと頑張って生きつづければ良いではないかという気がしてくるのである。
そう世の中にいくら見放されようが、自分で自分を見放さなければ、ちゃんと生きていけるんじゃないだろうか? 私はこの綿の下着を扱うように、自分自身を扱っていけばいいのだ。だとすれば、一見ダメになったものの使い道をしぶとく探していくことは、自分自身の使い道を自分でしぶとく探していくことのレッスンなのかもしれない。
そうなんですよみなさん。私なんてどうせ使い捨てなんて絶望するのはまだ早いんです。誰にでもまだまだちゃんとできることがある。自分が使い捨てにされたくなければ、まずは自分がものを使い捨てないこと……と思うんですが、いかがでしょう?
消耗品でも何度もあらゆる用途で使い倒す
かくして私の「捨てない」生活はどこまでもエスカレートし始めた。消耗品に限らずあらゆるものを「使い捨てない」生活。ある意味、人生かかってますから真剣ですよ!
ものが使い捨てられることなく生き延びることができれば、自分も使い捨てられることなく生き延びることができるかもしれないと思えば、どこまでだって進んで行かずにはいられない。
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