400年続く平安京を荒廃させた「平清盛」衝撃行動 大きな反感買った「神戸への遷都」強行したワケ

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兼実は6月1日には、使者を清盛のもとに遣わし「私も福原に参るべきでしょうか」と尋ねている。清盛の返答は「宿所がない。だから、すぐに来る必要はない。追ってまた案内する」というものであった。

兼実は内心、少しホッとしたろう。彼は日記に「清盛のお供をするのは、清盛に近しい人だけだ」と書いている。

ちなみに、福原へは安徳天皇だけではなく、高倉上皇や後白河院も赴いた。摂政・藤原基通はじめ多くの公家もそれに従った。

幼少の安徳天皇は、平清盛の邸、高倉上皇は平頼盛の邸、後白河院は平教盛(頼盛も教盛も清盛の異母弟)邸に入る。しかし、随行者の宿所が足りず、一部の人々は道路に座り込むありさまであった。

『平家物語』によると、清盛は以仁王の反乱に怒り、その父である後白河院を福原の「四面を板で囲って入口をただ一つ開けた」板屋に閉じ込めたという。「平家の悪行はここに極まりぬ」と記すが、このような処置が本当にとられたか否かはわからない。おそらく、教盛の邸に普通に入ったのではないか。

遷都に理由はなかった?

『平家物語』には「平家にとり最も尊ぶべき都」である平安京を「これという理由もなく他所に移す」ことを「あさましけれ」と非難している。なお、794年に平安京に遷都した桓武天皇は、平家の祖先にあたる。

『平家物語』に記されているように、清盛は本当にこれという理由なく、遷都を強行したのだろうか。

九条兼実は平家が「南都興福寺を攻撃する」ので、不慮のことがあってはいけないということで、遷都したと予想している。興福寺は以仁王(後白河院の第3皇子)が挙兵して平家に反旗を翻した際に支援していた。

うなずくべき見解であろうが、最近では、福原遷都は高倉上皇(後白河院の第7皇子、清盛の娘・徳子を中宮に迎える)、安徳天皇(高倉上皇と徳子の子)という「平氏系王朝」の新都建設との意味もあるのでは、とも主張されている。

とはいえ、行幸のときに新都はまだ造営されておらず、どこに都を建設するか迷走を重ねることになる。当初は、福原の南方にある輪田に建設しようともくろむも、土地が狭いということで、6月15日に見直される。

『平家物語』によると「播磨の印南野(兵庫県南部の稲美町)か摂津国の昆陽野(兵庫県伊丹市)に遷都しては」との意見が公家の間からあったという。印南野も昆陽野も平氏の勢力圏であったことから候補にあがったのだろう。

しかし、結局は7月中旬になって「福原をしばらく皇居とする。道路を開通し、宅地を人々に与えよ」ということになった。平安京はそのままとし、福原を暫定的な皇居(離宮)としたのである。当時、高倉上皇は病に冒されていた。できれば、早期に京都に戻りたかったはずだ。

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