400年続く平安京を荒廃させた「平清盛」衝撃行動 大きな反感買った「神戸への遷都」強行したワケ

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平家の内部(清盛の義弟・平時忠)からも還都論が出る始末であった。清盛はあくまで「福原に都を」との想いだったが、反平家勢力の跳梁もあり、事態はどう転ぶかわからなかった。『平家物語』には「8月10日に皇居の棟上げ、11月13日に新造された皇居への遷幸と定められた」とあり、着々と新都が造営されていくさまを記す。

それとともに、多くの人が新都に赴いたため、京の都が荒涼としていることが併せて描かれている。京の月が恋しいと福原から京に上った徳大寺実定は、草が生い茂り、鳥や虫の住処と化した我が家を見ることになる。福原への遷都を嘆く人々を『平家物語』は次のように描いている。

『今度の福原への遷都を、天皇も臣下も嘆いていた。比叡山や興福寺をはじめ諸寺・諸社にいたるまで、不当であると訴えた。よって、さすがの我の強い平清盛も、それならば旧都に帰ろうと言ったので、京中は騒動となった。そして、治承4(1180)年12月2日、急な遷都が行われたのである』と(著者による現代語訳)。

平清盛を激怒させた事件

さて、甲斐源氏や源頼朝との富士川の戦い(1180年10月)で敗れた平維盛(清盛の孫)は、新都・福原にたどりつくが、そこに待っていたのは清盛の雷だった。『平家物語』によると、清盛は「維盛を鬼界ヶ島に流せ。侍大将の伊藤忠清は死罪にせよ」と怒ったという。

しかし、『玉葉』で公家・九条兼実が記しているところによると、清盛は「大いに怒った」ものの、流罪とか死罪という言葉は口には出していないようだ。

ただ「天皇から追討使に任命されたのならば、たとえ、自らの死体を敵軍にさらしたとしても恥ではない。追討使を承った勇士が、いたずらに帰路についたということは、いまだ聞いたことがない。もし、京に入ったとしても、誰と目を合わすことができようか。不覚の恥は家に残る。早く立ち去り、京に入ってはならない」とは言っていたようだ。

流罪や死罪の言葉はないにしても、かなり怒っているのは間違いない。

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