400年続く平安京を荒廃させた「平清盛」衝撃行動 大きな反感買った「神戸への遷都」強行したワケ

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さて、そうしたなか、清盛に新たな難題が持ち上がる。福原から京都に還都するべきだとの意見が増してきたのである。しかも、その声は、身内からもあがってくる。『玉葉』には「平宗盛(清盛の子)が、京都に遷都してほしいと清盛に言った。清盛はこれに同意しなかったので、口論となった。このことは、人々を驚かせた」(11月5日)とある。

清盛の後継者ともいうべき宗盛からも、還都の申し出があり、意見対立があったのだ。『平家物語』には、諸寺諸社も還都を訴えていたとあり、比叡山延暦寺なども還都を訴える書状を天皇に奉っている(『玉葉』)。上皇や貴族も福原への遷都に反対していたことは前述したとおりである。

わずか半年足らずで京都への還都

四面楚歌の状況となり、ついに清盛は京都への還都を決断するのだ。これに、上下の人々は喜んだ。高倉上皇は、ご病気ということもあり、急いで福原を発った。「新都(福原)は、北は山に沿って高く、南は海に近く低くなっており、波の音がつねにやかましく、潮風が激しいところ」と『平家物語』にはあり、それが病気の要因の1つという書き方をしている。

「わずらわしいことの多かったこの新都に片時も残りとどまる者があろうか」(『平家物語』)との表現は、兵庫県出身の筆者としてはつらい記述である。

還都は、11月23日から始められた。清盛は11月29日に入京、二度と福原に戻ることはなかった。清盛が還都を決断した理由としては、還都論が勢いを増していたこともあろうが、平家に対する反乱が燎原の火の如く燃え広がっていたこともあろう。

遠江以東の15カ国が反乱軍に味方したとか、美濃源氏が反乱したなどの情報が頻々と寄せられていた。さらに、11月20日には、近江源氏の山本義経が平家方を襲撃し、挙兵する。延暦寺や興福寺の堂衆のなかにも、この動きに同調する者もいた。

次々と起こる不穏な動き、反乱鎮圧に専念するために、清盛は還都を決意したのではないか。遠方の福原よりは、京都のほうが指揮はとりやすいといえる。

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数
X: https://twitter.com/hamadakoichiro
 

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