「平清盛に翻弄された愛人たち」の末路が心打つ訳 平安時代末~鎌倉時代の女性の知られざる実像
平清盛が愛した「白拍子」
『平家物語』は祇王の登場を次のように記す。
「平清盛は、天下を手中にされたので、世間の非難や人のあざけりを省みず、気ままな振る舞いをされた。例えば、そのころ、都で評判となっていた白拍子の名手に、祇王(ぎおう)、祇女(ぎじょ)という姉妹がいた。刀自(とじ)という白拍子の娘だ。
姉の祇王を清盛が寵愛したので、妹の祇女も人々はもてはやした。清盛は祇王の母にも立派な家を造り、毎月、百石の米と百貫の金銭を与えたので、祇王の一家は富み栄えて、嬉しい日々を送っていたのであった」
白拍子は、平安時代末に流行した歌舞の一種である。また、その歌舞を舞う女性のことを白拍子ともいう。鳥羽天皇の時代に、島の千歳、和歌の前という女性が舞ったのが白拍子のはじめと言われる(『平家物語』)。
水干(男子の平安装束)を身につけ、立烏帽子(成人男性がかぶった帽子)をかぶり、白鞘巻をさして舞ったので「男舞」と呼ばれた。一説には、水干が白色だったので、白拍子と呼ばれるようになったという。
白拍子は遊女の側面もあり、この時代、権力者の愛妾(あいしょう)となる者が多かった。源義経の妾(めかけ)である静御前、後鳥羽上皇の妾である亀菊も白拍子である。
平清盛も白拍子を愛した1人だったようだ。清盛に愛された祇王を同じ白拍子の女性たちはうらやみ、あるいは嫉妬した。うらやむ者は「祇」という文字を名につけ、妬む者は「祇」の文字を用いなかったという。
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