悪しき成り上がり?平清盛が大出世した真の経緯 武家出身でありながら貴族社会で出世した手腕
平清盛は「悪役」か?
平安末期に権勢を振るった平清盛といえば、ひと昔前は「悪役」のイメージが強かった。
これはやはり、『平家物語』の影響が大きいだろう。あの「驕れる者も久しからず」である。武家出身でありながら貴族社会で出世の階段を上り詰めた清盛は、悪しき「成り上がり」であり、傲岸不遜な権力者の典型というわけだ。
清盛は、「清く正しい武士」対「腐敗した特権階級たる貴族」という庶民的歴史観のなかで分が悪かったのと同時に、戦前の皇国史観のなかでもイメージが悪かった。源頼朝の鎌倉政権をはじめ、のちの武家政権が天皇家と一定の距離を保ったのに対し、清盛は京都にあって、後白河院を「幽閉」したからだ。
しかし、こうした一方的ないし画一的な「悪役」清盛像は、大衆のイメージのなかでも徐々に是正されつつあるようだ。歴史学でも、古代から中世への転換を促した「政治家」清盛の見直しが以前から行われている。
ここでは、「人事」という面から、従来の清盛像を見直してみたい。
武力を専売特許としていた平氏が王朝権力に同化していく過程は、会社で言えば、専門職から出発した人が経営陣に参入していくサクセスストーリーである。
ここで清盛には、「悪役」イメージの延長線上で、「不正に」出世の階段を上った、と思われてきた面がある。つまり、武力で周囲を威圧しつつ、暴力的に地位をもぎ取ったというイメージだ。
清盛の出世に関しては、従来、もう一つの説がある。清盛は実は白河院の子、つまり「ご落胤」であり、そのために異例の出世を勝ち取った、という理解だ。
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