悪しき成り上がり?平清盛が大出世した真の経緯 武家出身でありながら貴族社会で出世した手腕
保元の乱で後白河についた清盛は、ここでも後白河派となるのが当然と思われただろう。だが、そうではなかった。たしかに清盛は、後白河上皇のために蓮華王院(三十三間堂)を建立するなど、かつての結びつきを大事にした。しかし同時に、二条天皇のためにも内裏の付近に宿直所を設営し、朝夕のご機嫌伺いに努めたのである。
『愚管抄』が、そうした清盛の姿を冷やかし気味に記している。現代表記に直して引用すると、
「よくよく慎みて、いみじく計らいて、アナタコナタしける」
アナタコナタ、つまり、あちらともこちらともよろしくやっている、ということだ。
以上の清盛の出世の軌跡をまとめると、①前半は慎重かつ着実に地位を上り、②千載一遇のビッグチャンスに実力で勝ち抜き、③上り詰めたのちも権力バランスに配慮して地位の安定を図った、ということである。
清盛は決して、ズルや楽をして出世の近道を走っていない。おそらく、絶えず気を遣い、汗を流しながら、「まっとうに」出世したのである。まさに出世の「保守本流」という感じではないか。
清盛の先見性
思わず「保守」という言葉を使ったが、あくまで既成の政治システムの「内部」で権力を握った清盛は、実際、「保守政治家」には違いない。その点、同じ武家政権でも、東国という「外部」で権力を打ち立てた源頼朝などとははっきり違う。
しかしまた清盛は、ただの出世した保守政治家でもなかった。「人事」とは直接関係ないが、最後にその点に触れておこう。
清盛は「保守のなかの革新」という、少し前に自民党の政治家が使った旗印を使いたくなる存在でもあった。その革新性を象徴するのは、彼の「海」への志向、すなわち、晩年に摂津福原(現・神戸市)に遷都した彼の海洋国家構想である。
平城京あるいは平安京に代表される古代は、海を恐れ、海を拒絶することで成り立っていた。それに対して清盛は、海の神、安芸厳島神社を一族の氏神に据え、兵庫島を築き、その後、いまの神戸港のルーツである大輪田泊を修築する。
おそらく清盛は、当時の東アジアの国々(いまの中国・朝鮮など)と同列の「普通の国」を目指していた。当時の「普通の国」とは、清盛の京都での処世術に似た、「『武』を衣の下に隠し」、交易にも重きを置く方向だ。
だが、清盛は福原に遷都した翌年、64歳で亡くなる。それ以後の武家政権は、「武」を前面に打ち出す、当時の東アジアでは「異質な国」のかたちを選択していくことになった。
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