悪しき成り上がり?平清盛が大出世した真の経緯 武家出身でありながら貴族社会で出世した手腕

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しかし、史実を見ると、どちらも当たらない。清盛は、京都という磁場のなかで、むしろ「武力を衣の下に隠して」慎重に振る舞った。そして、ステップ・バイ・ステップで出世していったのだ。

出世の「保守本流」

清盛が恵まれたスタートを切ったのは本当だ。伊勢平氏の出身で、平将門の乱での勝ち組・貞盛流平氏の一派である。都に近い伊勢や伊賀方面を拠点とし、父祖たる正盛・忠盛の代に白河院や鳥羽院に接近できていたことは大きい。

さらに、忠盛の代からかかわった日宋貿易によって蓄積された富が、清盛の出世に寄与しただろうことも指摘されている。

しかし、生まれがよく、コネや富があったとしても、清盛は中央政界での重役を生まれつき保証された「サラブレッド」ではなかった。

清盛は大治4(1129)年、12歳で従五位下に叙せられ、以後、少しずつ出世して、久安2(1146)年、29歳で、安芸守、中務大輔兼任の正四位下になる。ここまでは、他と比較して抜群に早い出世ではない。着々と階段を上っていった感じだ。

清盛の出世のスピードが速まるのは、やはり保元の乱(1156年)以降である。保元の乱とは、要するに後白河天皇と崇徳上皇との覇権争い。天皇家が分裂し、京都という中央を舞台にした前代未聞の騒乱であった。会社で言えば、経営陣が社長派と会長派に真っ二つに分かれて争う一大事だ。

勝ち組の後白河天皇についた清盛は、その功績で播磨守、その後、大宰大弐の地位を得る。

そして平治の乱(1159年)。これは、清盛と源義朝という、保元の乱の勝ち組同士が、軍事貴族の最高位を懸けてぶつかった対決だ。清盛はこれにも勝ち、永暦元(1160)年、2階級特進の正三位、参議となる。いわゆる「公卿」への仲間入りであり、政権最高機関の構成員になることを意味する。部長級以上の幹部クラスに出世したということか。このとき、清盛は43歳。

ここで強調しておかねばならないのは、保元の乱、平治の乱はともに正真正銘の真剣勝負であり、それに勝ったのは、ひとえに清盛の実力と強運のゆえであったことだ。生まれや親の七光りは関係なかった。

そして、応保元(1161)年に検非違使別当・権中納言、永万元(1165)年に兵部卿兼任の権大納言、その翌年に正二位・内大臣へと駆け上り、ついに仁安2(1167)年、50歳にして従一位・太政大臣となって位人臣を極める。

このように、保元の乱以降は一気に頂点に上り詰めた清盛だが、だからといって、必ずしも驕り高ぶった権力者というイメージは当たらない。むしろ、実質的な最高権力を得たあとも、利害の調整に長けた「気配り型」だったようだ。

それを象徴するのが、後白河上皇と二条天皇(この二人は親子)のあいだでのバランスのとり方である。平治の乱ののち、当時の貴族は、後白河派と二条派とに分かれて対立していた。またまた「会長」と「社長」の対立の構図だ。

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