「平清盛に翻弄された愛人たち」の末路が心打つ訳 平安時代末~鎌倉時代の女性の知られざる実像
中世は「武士の時代」と言われ、男性中心の社会のように感じられるかもしれないが、実はそうではなかった。
例えば、鎌倉時代の武士の家は、所領や財産を分割して相続していたが、女性にもそうした財産・所領が譲られていた。よって、御家人や地頭になる女性もいたのである。
源頼朝の妻である北条政子や、北条時政の後妻である牧の方を見ていても、男性に抑えつけられていた女性という感じが全然しない。
例えば、政子は頼朝の不倫相手が住む邸宅を破壊し、頼朝に対してもたびたび、堂々と意見するなどしている。牧の方は、夫の時政と謀り、3代将軍・源実朝を廃し、娘婿の平賀朝雅を新将軍として擁することで幕政を掌握しようとしたともいわれている(時政が主導したとの説もあり)。
「百発百中」の弓の腕を誇った板額御前
木曽義仲の愛妾・巴御前は、義仲に従い、戦地で軍功を立てたというし、『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に編纂された歴史書)には、板額御前という女武者も登場する。
板額御前は、越後国の豪族・城氏の一族であるが、城氏による鎌倉幕府への反乱(1201年、建仁の乱)では、幕軍を相手に奮戦した。「百発百中」の弓術により、敵を次々と殺したのだ。
しかし、敵将の攻撃によって負傷。鎌倉に護送されたとき、2代将軍・源頼家をはじめ、多くの御家人が板額御前に関心を示したという。板額御前を妻としてもらい受けたいという武将・浅利義遠(甲斐源氏の一族)によって、板額は甲斐国に赴いたようだ。
女性解放運動の先駆者として知られる作家・平塚らいてう(1886~1971)は、明治時代に「元始、女性は実に太陽であった」という有名な一文を残しているが、平安時代末から鎌倉時代に生きた女性たちの中には、ギラギラと輝く太陽のような人々もいたのである。
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