あの勝海舟に「恐ろしい」と言わせた豪腕男の正体 混沌の幕末にスピード感あふれる実行力を発揮

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実は長州藩は、もう1つ問題を抱えていた。かつての攘夷活動に対する報復として、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの四国連合艦隊の襲撃を受けて、下関砲台を破壊されたのである。これを「馬関戦争」あるいは「下関戦争」と呼ぶ。

いくら朝廷に背いたとはいえ、そんな状態の長州藩に対して今すぐの攻撃は控えるべきではないか……大久保は朝廷にそう働きかけていたのだ。

勝の登場により、目指すべく理想の国家ビジョンが明確になっただけではなく、長州征討に前のめり気味の西郷を抑制できたのは、大久保にとってむしろ僥倖だったではないだろうか。

「禁門の変」の勝利で勘違いした幕府

ひとたび権勢を振るった組織というのは、周囲から見て明らかに崩壊が始まっていても、どこか夢見がちなものである。全盛期からの衰えこそ自覚していても「これまで綿々と続いてきたことが、そう簡単に失われやしないだろう」というおごりが見え隠れする。

このときの幕府がまさにそうであった。「禁門の変」で長州藩を撃退できたのは、会津藩や薩摩藩の力があったからこそだが、勝利の快感は自分たちの実力を勘違いさせるのに十分だったらしい。

慶応元(1865)年5月16日、将軍の家茂が大軍を率いて江戸城を出発。長州藩にとどめを刺すために、第二次長征征討を行うべしと、圧力をかけてきた。幕府としては、幕兵と諸藩兵で軍を編制したうえで、大坂城から長州藩へと攻め入る算段である。そのための勅許を出すようにと、朝廷に求めた。

この事態に、薩摩藩で内政を固めていた大久保が動く。薩摩から京へと出向いて、公卿の近衛忠房に対して「長州の征討については勅命を出すのではなく、諸侯で話し合って決めるべきだ」と説得をはかっている。

だが、近衛が朝議の場で大久保と同じ意見を述べるも、押し切られてしまい、征討が決まってしまう。

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