「禁門の変」で活躍した西郷はといえば、征討軍の総参謀に命じられている。西郷は薩摩藩の家臣でありながら、征長総督である慶勝にも頼られて、いわば実質的には幕府軍を動かす立場になったのである。西郷もその期待に応えるべく、出番を今か今かと待ち構えていた。勝と会ったのも、幕府に長州征討を急かすためだった。
しかし、もし勝がいうように、共和政治を実現させるならば、有力藩の1つである長州藩を叩きのめしている場合ではない。勝の大局観に心を奪われた西郷は「長州を討つべきではない」と考えを一変させる。
思い込めば、一直線。そして思いが変わったときもまた一直線なのが、西郷だ。勝との会談後、西郷は早速、征長総督の徳川慶勝に会ってこんな要望をしている。
「長州との武力衝突は避けて、話し合いで早期に解決させましょう」
これまで長州藩への厳しい処分を望んでいた西郷の予期せぬ変節に、慶勝も戸惑ったことだろう。西郷は慶勝から全権を託されると、広島に入って長州藩との交渉を開始する。
ちょうど長州藩内では、攘夷派が失脚し、保守派が力を持ち始めたときだった。そんなタイミングも功を奏したようだ。長州藩が暴走した「禁門の変」に対する処分としては、責任者の3家老に切腹を命じ、さらに数人の軍事責任者を死罪にすることで、西郷は話をまとめている。西郷のスピード感あふれる実行力には、勝も改めて驚かされたに違いない。
独断ではなく大久保と相談しながら実現させた
もちろん、長州との交渉は、西郷の独断で行ったわけではない。前述したように、徳川慶勝から全権を託されたうえで、薩摩にとどまる大久保と相談しながら、西郷が長州藩に乗り込んで、自ら汗をかいて実現させたことだ。加えて、大久保と西郷に権限を与えて自由にさせながら、一切の責任を背負った薩摩藩家老の小松帯刀の存在も忘れてはならない。
文献のなかには、勝の影響による西郷の変節について「大久保はまたも西郷に振りまわされて、長州藩への態度をあわてて変えることになった」とする見方もあるが、筆者はそうは思わない。確かに、大久保は朝廷に向けた書いた起草書で「長州に押し寄せて、すみやかに追討すべきである」としているが、そのあとにこう続けている。
「異国からの艦隊が襲来しており、長州藩が苦境にあると聞くから、しばらく様子をみたうえで処置すべきだ」
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