横井小楠は肥後出身の儒学者で、その開明的な実学思想に基づいた国家構想に勝は惹かれていた。そんな横井と同じく勝が驚愕したのが西郷である。勝は「横井の思想を、西郷の手で行われたら、もはやそれまでだ」と、幕府に仕える幕臣としての危機感を露わにしている。
とりわけ西郷については「いわゆる天下の大事を負担するものは、はたして西郷ではあるまいか」とまで評価している。その一方で「意見や議論は、西郷よりむしろおれのほうが優る」とも言っていることから、勝は西郷のたたずまいから理屈抜きの脅威を感じたようだ。
出会ってすぐに魅せられたのは、西郷のほうも同じであった。勝と対峙したときの感動を、大久保への手紙でしたためている。
「一体どれだけ智略のある方なのか、まるで見当もつかないように、お見受けした次第である」
西郷が感服したのは、勝の視野の広さだ。勝は幕臣の身でありながら「もう幕府は限界だから、これからは諸藩が連合する共和政治を行うべきだ」と、初対面の西郷に語り出した。幕府に仕えているからこそ、限界をありありと実感していたのだろう。
勝の幕臣らしからぬ見解を受けて、西郷は自身の考えを大きく変える。
西郷が考えを大きく変えた背景
西郷の大転換を理解するには、当時の状況を説明する必要があるだろう。
元治元(1864)年7月19日の「禁門の変」で、京都に進軍してきた長州藩は今や「朝敵」であり、長州藩主・毛利敬親の官位は剥奪された。7月23日、朝廷は「御所に対して発砲した」ことを重くみて、長州征討の勅命を発している。
これを受けて薩摩藩は8月、朝廷に建白書を送った。起草したのは大久保利通である。
「長州に押し寄せて、速やかに追討すべきである」
そして8月7日、幕府は前尾張藩主である徳川慶勝を征長総督に任命。諸藩に出兵が命じられることになり、長州藩はいよいよ追い詰められていく。
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