混迷政局と日本経済のゆくえ--水野和夫×塩田潮

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 日本の近代国民国家のモデルも明治維新の近代憲法、近代議会、近代政府をもって、国民の生活、安全、平和といった一切合財を国が面倒みるというものだった。そのモデルが、90年代に入って壊れ始めてきたと思います。

水野 日本国民1億人すべてが中流を目指せなくなった段階で、近代国家モデルは終わりつつあったといえるでしょう。塩田さんがおっしゃるように自民党はまさに成長至上主義の政党だったのです。

塩田 僕はこれまで、総理大臣経験者に「政治の役割とはなにか」と、問いかけてきました。岸信介氏は「国民をどうやって食わすか」と答え、竹下登氏は「国民に夢を与えること」と答えた。総理大臣になる以前の小泉純一郎氏は、「これまでやってきたことをやめて全部見直す」と答えた。前者の2人とはまったく異なる小泉氏は当時すでに成長モデルが限界に来ていると肌で感じていたのかもしれません。

水野 小泉政権の後に登場した民主党政権が「革命的」だとするなら、成長至上主義とは別のなにかを打ち立てるべきだったのでしょう。

民主党政権の歴史的な位置付け

塩田塩田 昨年の民主党の総選挙大勝は、子ども手当や高速道路無料化といった「生活第一」といったメニューを掲げたことよりも、実は「無駄の排除」「脱官僚」「政治主導」といったメニューを作り出す厨房、すなわち官僚機構自体を改革しようとしたところに、有権者は惹かれたのではないでしょうか。

1970年代以降、ひとつの党が300前後議席を獲得した選挙は4回しかありません。1回目は1980年、首相不在の衆参ダブル選挙。2回目は1986年、中曽根氏が仕掛けたダブル選挙。3回目は2005年の小泉氏の選挙。そして4回目が昨年です。それぞれを経済と照らし合わせると興味深い別の見方ができます。

1回目は、石油危機を乗り切って成長危機に直面したにもかかわらず、なんとか自民党政権によって克服した時期で、2回目はバブルの入り口の頃。3回目は、これまでの政治をすべてやめるものの、成長モデルの延命、あるいは修正といった思想があった。国民は自民党に成長を託したわけです。

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