飲酒量が多かった江戸時代、酒はいくらだったか 日本酒が作られるようになった時代の飲酒事情

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江戸時代のお酒事情を紹介します(写真:Table-K/PIXTA)
テレビドラマや映画などでよく描かれる江戸時代の人々。日々の暮らしは現代とは大きく異なっていたはずですが、「お金の面」ではどうだったのか――。「江戸時代の『寿司の値段』はいくらだったのか」「江戸時代の庶民『家賃相場』はどれほどだったのか」に続いて、日本近世史学者の大石学氏が監修した『江戸のお勘定』より一部抜粋・再構成してお届けします。
同書では、比較的物価が安定していたとされている文化・文政年間(1804~1830)を基準とし、金・銀・銭の換算は、幕府の換算基準値の1両=銀60匁=銭4000文としています。また、当時はそば1杯が16文だったことから、現代の価値に換算して1文を30円、そこから金1両を12万円と計算しています。

江戸時代の居酒屋は椅子もテーブルもなし

仕事帰りに軽く一杯引っかけるのが楽しみ、という人は多いだろう。一人暮らしならばなおさらだ。江戸では、日雇い、棒手振りなど、手に技術や経験がなくてもすぐに始められる仕事があり、貯蓄できるほどのゆとりはないものの、まじめに働いてさえいれば、男性の一人暮らしの場合、酒を飲むぐらいの金は捻出できる。仕事帰りに、ちょっと一杯という需要も多かった。

居酒屋らしいものができたのは、神田鎌倉河岸(千代田区)の豊島屋が最初といわれる。鎌倉河岸は、江戸城築城の時に鎌倉からの石を荷揚げしたところからその名がついた。江戸城築城後も、多くの物資がここから荷揚げされ、水運関係の労働者の多い場所でもあった。豊島屋ではこうした客に試飲をさせながら酒を売っていた。やがて、豊島屋では客の求めに応じて酒を量り売りし、その場で売った酒を飲ませるようになった。

そのうちに酒のつまみとして田楽を売り出したところ、ほかの店よりも大きいことから人気になったという。豊島屋名物の田楽は1本2文(60円)だった。今でも、下町の古い酒屋などでは店先で缶詰や乾き物を肴にちょっと一杯と、立ち飲みで酒を楽しむ人がいるが、おそらくこのような感じだったのだろう。

ちなみにこの豊島屋、当時は3月3日の桃の節句には欠かせない白酒の名店として有名だった。2月25日の売り出しには、徹夜で並ぶ客が多く出る始末で、その様子が『東都名所図会』にも描かれている。

酒屋で飲むことが流行ると、煮売り屋という総菜を売る店でも、総菜とともに酒を飲ませるようになった。それがやがて酒肴と飯に分かれ、簡便な食事を出す店を一膳めし屋、酒肴を中心とした店を居酒屋と呼んで区別するようになった。居酒屋のほうは入り口に縄のれんをかけていたため、単に縄のれんと呼ばれるようになった。

このような江戸時代の居酒屋には、現在の居酒屋のように椅子とテーブルがあるわけではない。縁台に座り、自分の脇に酒と肴を置いて飲む。無理な格好で飲むことになるからそんなに長居はできなかった。

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