飲酒量が多かった江戸時代、酒はいくらだったか 日本酒が作られるようになった時代の飲酒事情
米から作られる日本酒は日本独自のものであるが、最近は「サキ」といって外国でも人気がある。現在の日本酒が作られるようになったのは、江戸時代である。醸造中に灰汁を入れて発酵が進むのを防いで、酒が酸っぱくならないようにし、最後に火を入れて保存性を高めた。18世紀に水車を使うことによって精米度が向上し、さらにおいしい日本酒を作ることが可能となった。
こうした技術は上方で生まれたため、当時は灘や池田、伊丹、西宮といった現在の兵庫県内が、銘酒の産地として知られていた。この地域は水がおいしく、今でも「六甲」という地名を冠したミネラルウォーターが売られている。上方の酒は、作られた直後は辛いが、船に乗せて江戸にやってくるとまろやかになるといい、富士山沖を通ってくることから「富士見酒」とも呼ばれた。
飲酒量は1人あたり年間54リットルという計算
元禄年間(1688~1704)には上方から21万石の酒が入ってきていたという。当時の人口を70万人とすると1人あたり年間54リットルも飲んでいたことになる。一升瓶に直すと30本だか、70万人には子どもや下戸も含まれるから、それを省いたとすると江戸の人々はかなりの量を飲んでいたわけだ。
江戸時代、京都や上方に行くことを上るといい、江戸に行くことは下るといった。今と逆である。上方から江戸にやって来るものを下り物といい、江戸では下り物を高級品としてありがたがった。今日でもつまらないものや大したことがないものを「下らない」というが、その由来は下り物にあるといわれている。
さて、酒の値段は、幕臣で狂歌師・戯作者の大田南畝の記録によれば、天明4年(1784)以降、1升124文(3720円)から132文(3960円)が定価だったが、よくないものなら80文(2400円)や100文(3000円)。幕末の万延年間(1860~1861)には、上酒が1合40文(1200円)とかなり安くなった。
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