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1979年、青森市で生まれた木村さんは幼い頃から、祖母とふたり暮らしだった。物心つく前に、両親は離婚。木村さんを引き取った母親は健在だったが、「奔放な性格」(木村さん)で、家にほとんどいなかった。

親代わりを務めた祖母は、普段は優しい人だった。しかし、お酒を飲むと豹変し、時には暴れることもあった。幼い木村さんは、祖母を刺激しないように顔色をうかがいながら過ごすようになり、それが当たり前の生活だったから、なかなか友達もできなかった。家でも、学校でも、ひとり静かに塗り絵をしたり、絵を描いたりしているときが、心休まる瞬間だった。

中学生のとき、子どもがいなかった母方の伯父夫婦と一緒に暮らすことになった。祖母も一緒の4人暮らしは、夫婦共働きで安定した職に就く伯父夫婦のおかげで落ち着いたものになった。しかし、安息の日々は長く続かない。間もなくして借金を抱えた親戚が夜逃げし、保証人になっていた伯父夫婦は家を売って引っ越すことに。

高校3年生のとき、青森市内に借りたアパートで、祖母と母との3人暮らしが始まった。生活は厳しく、祖母は60歳を過ぎて生まれて初めて働くことになった。仕事は、パチンコ店が閉店した後の清掃。母は生活保護を受給しながら、アルバイトの仕事を探した。

高校時代も美術部で絵を描き続けていた木村さんは、「東京の美大に通いたい。将来はデザイナーになりたい」と夢を抱くようになった。しかし、まったく余裕がない生活で諦めざるをえなかった。暗く沈み込んだ木村さんに手を差し伸べたのは、顔も名前も知らなかった父親だった。それまでなんの交流もなかったが、どこからか娘の窮状を聞き付けて、いても立ってもいられなくなったのだろう。父親は、進学に必要な資金を用意することを約束。そのおかげで、青森市内の専門学校のデザイン学科に進むことができた。1998年のことである。

進学して間もなく、母親は「知人を頼って出稼ぎに行く」と関東に移住した。青森駅のホームで母親を乗せた電車を見送った木村さんは、駅の階段を降りながらとめどなく涙を流した。

涙もろく、情に厚い編集長との出会い

祖母の酒乱は収まらず、ひとりで家を出て行った母親へのやり場のない感情も募り、専門学校生になってから、友達やバイト仲間と朝まで遊び歩くことが増えた。それでも、デザインの勉強は続けたくて、学校にはまじめに通った。

専門学校は2年制。就職活動の時期に求人誌を眺めていたら、編集者の募集を見つけた。求人誌と住宅情報誌の取材と編集、デザインをしている会社で、学校で学んだことも生かせると思って電話をかけた。「新卒不可」と書かれていたけれど、運よく面接してくれることに。

訪ねた木村さんを迎えたのは、編集長だった。職業柄か、面接の際、編集長はまるで取材をするように、これまでどういう人生を歩んできたか、質問してきた。木村さんは、隠し立てすることなく、聞かれたことに率直に答えた。すると、そのうちに編集長が涙ぐみ始めた。面接を終えるとき、「新卒は採っていないんだけどね。しょうがない、うちで働きなさい」と言ってくれた。

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