「廃棄野菜のクレヨン」で一発逆転シングルマザー 2000円する商品が「15万セット販売」の大ヒット
仕事は、誌面のレイアウトを決めたり、デザインをしたりするところから始まり、次第にお店の紹介記事を書いたり、人物取材を任されるようになった。慣れてくると、「人の話を聞くって面白いなあ」と思う余裕ができて、働くことが楽しくなった。目の前の仕事に集中しているうちに、1年、2年とあっという間に過ぎていった。
長く厳しい冬の後に、ようやく訪れた春。その先には、なかなか明けない梅雨が待っていた。
2004年、24歳のとき、専門学校時代にアルバイト先で出会った男性との間に子どもを授かって、ふたりは結婚。夫は入籍してから3カ月もすると、青森県外に出稼ぎに行った。母親は不在で祖母も頼りにできないため、木村さんは出産にまつわるすべてをひとりで担った。
会社に子どもができたと告げると、退職を促された。小さい会社だったこともあり、出産する女性は戦力外とみなされてしまったのだ。
しかし、木村さんにとっては死活問題。出稼ぎに行ったはずの夫から生活費は届かず、自分が仕事を失ったら、どうやって子どもを育てたらいいの? 木村さんは事情を話し、「3カ月ですぐに戻ります」と頭を下げた。情に厚い編集長はその申し出を突っぱねることはせず、産休を認めてくれた。その編集長に出会えてよかったですね、というと、木村さんは「本当にそう思います」とほほ笑んだ。
ワーキングプアからの脱出
出産から最初の3カ月までをひとりで乗り切った木村さんは、娘を保育園に預けて仕事に復帰した。その頃の給料は、手取りで14万円程度。母子手当もあったとはいえ、家賃、生活費、保育料を支払うと手元に2、3万円残ればいいほうだった。唯一の救いは、借金を返し終えていた伯父夫婦が再び力を貸してくれるようになったこと。夫婦にとって木村さんの娘は孫のような存在で、仕事で手が離せないときは預かってくれたり、時には金銭的なサポートもしてくれた。
こうして慣れない子育てと仕事の両立に四苦八苦しているタイミングで、夫が戻ってきた。これで少し楽になる……という幻想はすぐに打ち砕かれた。夜な夜な出歩き、娘が熱を出して苦しんでいても、帰ってこない。電話にも出ない。これからの生活に希望を見いだせなくなった木村さんは、離婚を決めた。結婚から数カ月、娘がまだ0歳のときだった。
別れた夫に養育費を要求しなかった木村さんは、必死で働いた。暮らしは楽にならず、ずっと綱渡りをしているような感覚だった。木村さんは当時の自分を「ワーキングプア」と表現する。
娘と過ごす時間を増やしたい、もっと稼ぎたいという気持ちもあり、7年間務めた会社を辞めた木村さんは2度、3度と転職を繰り返した。しかし、どこもしっくりこなかった。小学校に入学した娘は毎日、放課後児童会(青森の学童保育の名称)に通っていた。仕事が遅くなる日も多く、青森市のサポーター制度を利用して夜間も子どもを見てもらっていた。
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