労働者階級は、帰宅後に子どもたちが近所の子や親せきの子たちと自由に遊ぶ。異年齢が混じりあい、時にルールを自分たちで作りながら大人から自立して過ごす様子は、むしろ理想的にも思える。
一方で、ミドルクラスは、親たちが日によっては複数の習い事に送迎し、同じ年齢の子どもたちだけで大人によりお膳立てされた活動をする。日常は分刻みで忙しいが、組織化された活動の中で社会的なふるまいを身につけていくーー。
本としてはこの2つの過ごし方のどちらがいいという結論は出していないのだが、その後に出された『Unequal Childhoods』の増補版では10年後の再調査の結果が明らかになる。そこには、さまざまな資源を活用して、学業や人生における成功を手にしていくミドルクラスと、地域の犯罪等に巻き込まれながら先の見通しを持てない労働者階級の現実が描かれており、自由で自立した遊びの効果への期待は打ち砕かれることになる。
フランスの社会学者、ピエール・ブルデューは「ハビトゥス」という概念を提唱している。これは、家で使われている言葉遣いや、触れている音楽、芸術作品などが行動や嗜好を方向づけていることを説明するもの。日本でも、親の学歴だけではなく、家にある本の冊数や博物館・美術館に行った経験等の“文化資本”と学力や学歴達成の関係性が様々に検証されてきた。
ブルデューのもともとの議論は、ある意味で上流階級がナチュラルに身に付けていくハビトゥスは、ミドルクラスが多少あがいたくらいでは身に付かないように見える。しかし、ミドルクラスは、それをどうにかお金で買おうとしている、つまり経済資本を使って文化資本を獲得しようとする。
マイケル・サンデルによる『実力も運のうち』(2021年)では、アメリカでもアイビーリーグの学生の3分の2あまりが所得上位20%の家庭出身で、スポーツ推薦はより裕福な家庭に恩恵をもたらすと指摘する。課外活動や公共奉仕活動をアドバイスするコンサルタントや大学出願の小論文用に夏の外国旅行プログラムを提供する専門コンサルタントもいるという。
このように親の資本を使って、がっちりとスケジュールを組むことで子どもの教育達成が可能になるのであれば、うまれた家庭が経済的に恵まれているかどうかで差がついてしまう。
シンガポール政府は属性主義ではなく業績主義(メリトクラシー)であることを国の方針として打ち出しているが、小学校への入学では親の出身校には入りやすい等の仕組みもある。それに加えて塾や習い事の外部資源を駆使して組んだスケジュールによって子どもの成功が形作られているのだとしたら。
階層による格差問題はもちろんシンガポールに限らないが、公正性という観点から、あるべき社会の姿とは言いがたい。
送迎に追われる母たち
そして、親子の多忙なスケジュールの弊害の3つ目に、女性活躍の阻害を挙げたい。『Unequal Childhoods』を読んだときにも、習い事の送迎に奔走する親は一体どんな仕事をしているのだろうかと首を傾げたのだが、実際問題ここまで多忙な習い事の送迎は、母親の就労を妨げる可能性がある。
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