医療政策で「需要」と「ニーズ」を使い分ける理由 知っておいたほうがいい「医師誘発需要仮説」

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そういえば、ここで論じた、「ニーズと需要の違い」を応用しながら、医学部の入学定員の話題について論じた話があるので紹介しておこう。厚生労働省の医師需給分科会という会議の場である。

医師誘発需要仮説という不思議な仮説

医師数について論じる場合には、医療経済学の世界にある、医師誘発需要仮説(physician induced demand hypothesis)というものに触れざるを得なくなる。この仮説は、医療においては、供給サイドから独立した「需要」というものは存在せず、供給者、つまりは医師が創出してはじめて「需要」は存在するという仮説である。

普通の経済学から見れば風変わりな仮説であるが、こうした風変わりな経済学に興味がある人たちは、ガルブレイスという経済学者のことをご存じかもしれない。彼が、『ゆたかな社会』(1958年)で説いた依存効果――需要は供給とは独立に存在せず、市場にある需要は、供給サイドの生産・営業活動に依存して作られる――は有名である。

ガルブレイスの依存効果と医療経済学における医師誘発需要仮説は、普通の経済学のように、需要は供給と独立して存在するという仮定をおかない点で同じである。需要が供給と独立して存在しているのであれば、需要はニーズの部分集合となり、需要はニーズに包含される。しかし供給とは独立していない需要が想定できるからこそ、需要とニーズの関係は、先に描いた和集合の関係となるのである。

では、医師需給分科会で、「医師という国家資格を伴う職種の需給を考える際の留意点」として、何を語ったのか。当日の、議事録から紹介しておこう。

医師の供給過剰に伴い生じる課題については、これまでの医師需給分科会において議論がなされ、中間取りまとめにおいても一定の記述がなされてきたものですけど、今回、医療経済学の観点から、改めて整理させてもらいました。
国家資格を伴う職種としては、法科大学院、公認会計士などがあり、これらの過剰と不足問題の歴史をとりあげた桐野高明先生の「医師の不足と過剰」も参考にしています。
配布資料には、医師の供給過剰で起こりうる問題を、3つの観点からまとめています。【医師の質の低下】、【医療と需給者間の情報の非対称性が強いサービスに起こりうること】、【社会全体でマンパワーの有効な活用面での問題】です。
このうち、2番目の医療経済特有の問題点を説明させていただきます。医療では、医師誘発需要仮説というものがあり、医師の裁量的行動によって需要が誘発されるという仮説です。ただ、診療報酬の違い等による診療行為の変化についてはこれを支持する膨大な研究があるのですが、医師数増加による医療費増は研究レベルでは明確に定まっていません。
考えられうることは、医師誘発需要がない場合、つまり医師数増加により医療費が増加しない場合には、医師数の継続的な増加は、医師1人当たり所得、処遇の低下が生じることになります。
他方、医師誘発需要がある場合、すなわち、医師数増加により医療費が増加する場合は、医師数の継続的な増加は、医療ニーズよりも過剰なサービスを招き、医療費増、医療の質、QOL(生活の質)の低下が生じることになります。
これから先、仮に、両方のことが並行して起こるとすれば、その識別は難しいために、研究面での決着はなかなかつかないのではないかと思われます。
人口減少との関連で言えば、18歳人口当たりの医学部定員数推計(1000人当たり)、1990年3.8人が2020年8人、2050年には11.5人となります。18歳以下人口の減少に伴う他職種を目指す優秀な若者が減少していくことになり、景気低迷を背景として、医学部への桁違いな人気が将来的に維持される場合、長期的には、他学部での人材不足を経て、他業界での優秀な人材の不足が生じるという人的資源配分上の失敗を招くことになるでしょう(医学部人気については『日本の大学の医学部教育は何が問題なのか?――医療介護の一体改革に立ちはだかる大きな壁』(2018年12月27日)参照)
最後に、「医師は優秀な人材であるために、過剰となれば医療職以外の道で成功し、失業することはない」という論をしばしば聞くのですけど、医師養成に要する費用は高額であり、多額の税金、たとえば自治医科大学の修学資金(2300万円/6年間)が投入されおり、医師の供給過剰に伴い、多くの医師が医業を行わないことになれば、国民にとって大きな損失となることも、論点に含めておいていいと思います。
私からの説明は以上で、他の論点は、配付資料を参照していただければと思います。

医師需給分科会での当日の配布資料「医師という国家資格を伴う職種の需給を考える際の留意点」(2020年11月18日『医療従事者の需給に関する検討会・第36回医師需給分科会』)と、配布資料で紹介している『医師の不足と過剰』の著者、桐野高明東大名誉教授との対談『医師需給を考える視座』(2019年7月15日『週刊医学会新聞』第330号)を参照されたい。

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