「750億円以上の偽金」作った薩摩藩の科学力 お寺の鐘さえ偽金の材料にした緊急事態

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薩摩藩はなぜ750億円以上もの偽金を作ったのか?(写真:Shila/PIXTA)
幕末に、現在の貨幣価値にして「約750億円以上もの偽金」を作ったとされる薩摩藩(現在の鹿児島県)。ときには寺社の鐘でさえ偽金づくりの材料にすることも。いったい、なぜここまでする必要があったのか? 元国税調査官で、作家の大村大次郎氏による新刊『龍馬のマネー戦略 教科書では絶対に教えない幕末維新の真実』より一部抜粋・再構成してお届けする。

幕末では、土佐藩以外にも偽金に関心を持っていた藩は多い。というより、薩摩藩などは土佐藩よりも、かなり早くから偽金を製造しており、龍馬はそれにならおうとしたのである。

また薩摩、土佐だけではなく、偽金づくりをしていた藩は判明しているだけでも十数藩に及ぶ。佐幕派の中心だった会津藩でさえ偽金をつくっていたのだ。なぜ諸藩は、偽金をつくろうとしたのか、その背景を説明したい。

なぜ幕末に「偽金づくり」がはやったのか?

江戸時代、貨幣の鋳造は幕府が独占的におこなっていた。

諸藩は、貨幣の鋳造は禁止されており、藩内にだけ通用する貨幣を鋳造する場合でも、幕府の許可が必要だった。

しかも幕府は、藩内通用の貨幣の鋳造もなかなか許可しなかった。貨幣鋳造を許可すれば、偽金をつくるようになるかもしれないからだ。

幕府が持つ、この「貨幣鋳造権」は、実は莫大な収益をもたらすものだった。というのも、幕府は財政が悪化すると、悪質な貨幣を鋳造することで補ってきた。簡単に言えば、金の品位を落とした小判を鋳造し、それを以前の小判と同じ価値で流通させ、その分の差益を得るということである。この「貨幣改鋳」は、江戸幕府の財政再建の常套手段だった。

幕府が最初に貨幣改鋳をおこなったのは、元禄8(1695)年8月だとされている。時の勘定奉行・荻原重秀が、金銀の産出量の不足と貨幣流通量の低下を理由に、金の品位を落とした「元禄小判」を鋳造したのである。この貨幣改鋳により、幕府は500万両の出目(収入)を得たとされている。

これに味をしめた幕府は、財政が悪化するたびに、貨幣改鋳をおこなった。そのため関ヶ原の翌年、慶長6(1601)年に鋳造された「慶長小判」と、安政の小判を比べれば、金の品位は3分の1になっていた。

江戸時代後半には、平時でも幕府収入の3分の1近くを、改鋳益が占めるようになっていた。しかも、その割合は幕末にはさらに高まることになった。そしてついに幕末には、幕府は「万延二分金」という超劣化貨幣を大量生産し、財政を好転させていたのだ。

万延二分金というのは、万延元(1860)年から鋳造を開始された金貨で、通貨価値は2枚で1両に相当する(1両=4分)。この万延二分金は、それまでの金貨と比べると、金の含有量は60%しかなかった。金の減量分は、幕府の取り分になるという寸法である。

幕府の勘定奉行・小栗上野介は、この万延二分金の改鋳による差益で、慶応元(1865)年に、横須賀製鉄所を建設する計画を立てたと言われている。幕府も幕末は出費が続き、財政は火の車だった。そのため財政再建の切り札として、万延二分金を、それまでの10倍以上もする5000万両分も大量発行したのだ。

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