「750億円以上の偽金」作った薩摩藩の科学力 お寺の鐘さえ偽金の材料にした緊急事態

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しかし諸藩にとっては、万延二分金というのはありがたくない存在だった。金の含有量が4割も減っているのに、これまでと同じ価値で使わされるのである。

その結果、急激なインフレが起き、経済が混乱した。潤うのは幕府ばかりである。幕府だけが潤うということは、日本の政治の主導権を握ろうとしていた諸国の雄藩にとって、非常に面白くないことだった。幕府が昔日の勢いを取り戻せば、諸藩が政治の表舞台に上がる機会が失われてしまう。

諸国の雄藩たちは「なんとかして万延二分金による幕府の利益を横取りしたい」という意思が働いた。そこで、各藩の中では、自分たちも万延二分金の偽造品をつくって、その恩恵に蒙ろうとするものが生じたのである。その代表格が薩摩藩だった。

薩摩藩は「偽金づくりの総本山」だった

薩摩藩は「偽金先進国」とも言える存在だった。薩摩藩は、幕末の名君と言われた島津斉彬によって、日本で最先端の科学力を持つ藩となっていた。

斉彬は、ペリー来航以前から海外情報の取得につとめ、西洋の技術をいち早く取り入れた。「集成館」という大きな工業施設をつくり、ガラス・水雷の製造、紡績などの事業をおこなっていたのである。溶鉱炉や造船所も建設し、ペリー来航から1年後には、すでに自前の西洋式軍艦を製造していた。

薩摩藩の偽金製造は、ペリーが来航した嘉永6(1853)年にすでに始められたと言われている。この年、斉彬は家宝の八景釜をつくるという名目で、江戸鋳銭座の西村道弥を招聘し、家臣の市来四郎などに鋳銭法を伝授させた。安政4(1857)年ごろから、製錬所で金銀分析という名目で「天保通宝」「四文銭」の鋳造を始めた。

文久2年(1862)年の秋、薩摩藩は幕府から「琉球通宝」の鋳造の許可を受けた。「琉球で通貨が不足しているので、それを補うため」ということを理由にしていた。

実は、この琉球通宝は、天保通宝と形がまったく同じだった。薩摩藩が天保通宝を偽造しようというのは、見え見えだった。天保通宝というのは、1枚で100文の価値で流通していた銅貨だった。

しかし、実際の銅の分量は、一文銭4枚程度しかなかった。つまり一文銅銭を4枚集めて、天保通宝を1枚偽造すれば、莫大な利益が得られるのだ。薩摩藩は、幕末の一大勢力だ。開化政策をすすめ、経済力もある。幕府としても、一目置いた存在だった。

幕府は、薩摩藩の意図を察しつつも、機嫌を損ねられると困るので、琉球通宝の鋳造を許可したものだと思われる。幕府の許可が下りると、薩摩藩は集成館の横に鋳銭工場を建て、本格的な天保銭の偽造を始めた。この工場は、文久3(1863)年の「薩英戦争」で焼けてしまったが、すぐに西田に新しい工場がつくられた。薩摩藩はこの天保通宝の偽造で、莫大な利益をあげたとされる。

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