「750億円以上の偽金」作った薩摩藩の科学力 お寺の鐘さえ偽金の材料にした緊急事態
偽金づくりは、そう簡単にできるものではない。特に、原材料となる金属の入手は大変だった。金、銀、銅などの流通は、幕府が目を光らせている。天保通宝の原料は銅だが、薩摩藩は、対馬(長崎県)、安芸広島、越前福井、秋田などから、ひそかに銅を買い集めた。また、寺社の鐘を強制的に供出させたりもしていた。
罰当たりなことに、鐘を鋳つぶして貨幣をつくっていたわけである。幕末の諸藩が、いかに財政に逼迫していたかということである。
ちなみに、明治維新後、新政府は「廃仏毀釈」を推進させたが、薩摩藩はそれがもっとも徹底していたという。廃仏毀釈をして寺社の鐘や仏像を供出させれば、貨幣の原料が得られるというのが、その理由だったのかもしれない。
天保通宝の偽造で味をしめた薩摩藩は、万延二分金の偽造にも手を出した。前述したように、万延二分金は幕府が大量発行した劣化貨幣である。万延二分金は、金よりも銀の含有量のほうが多い「金貨」だった。つまり、名目上は金貨だが、その実は金メッキをした「銀貨」だったのである。
当時、日本には、欧米諸国からメキシコ銀が大量に入ってきていた。欧米諸国は、日本との貿易の支払いを、メキシコ銀でおこなうことが多かったのだ。このメキシコ銀を改鋳して、偽の二分金がつくられたのである。
薩摩の科学力は「日本最先端」
銀と金をうまく混ぜ合わせて貨幣をつくるのだから、それなりの技術が必要となる。前述のように当時の薩摩藩は、日本でも最先端の科学力を持つ藩だったので、その科学力を使って、偽二分金がつくられたのである。二分金の偽金製造については、藩をあげての隠蔽工作をおこなったため、その記録はほとんど残っていない。
藩主の別邸があった花倉に、二分金の鋳造工場があったとされるが、それも明確な資料はない。しかし、薩摩藩は相当数の偽造をおこなったと見られている。明治以降の調査では、少なくとも150万両以上(現在の貨幣価値にして約750億円以上)の偽金をつくっていたことが明らかになっている。
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